キャラメルと月のクラゲ
そして夕方、僕は裏口からバイト先に入っていく。
住んでいるマンションに最寄りの大きな駅から徒歩五分。
クラゲを主に扱うペットショップ『Crystal Jellies』が僕のバイト先だ。
「おはようございます。ミオ先輩」
「あ、椋木くん。おはよう」
事務所から続くその扉からミオ先輩がちょうど出てきた。
静かに扉を閉めて振り返った彼女の長い黒髪がゆっくり揺れる。
「来たばっかりのところ悪いんだけど、お店、少し頼めるかな?」
切りそろえられた前髪の下でメガネの奥の潤んだ瞳が僕を見ていた。
「はい、いいですよ。休憩ですか?」
「うん。ちょっとね。それと、———お客さんがお話している途中に寝ちゃったからよろしくね」
「お客さんがですか?」
「ごめんね。そっとしておいてあげて。それじゃ行ってきます」
財布だけを持ってミオ先輩はいそいそと出ていった。
僕はエプロンを身に着けると、その扉を開けた。
BGMに流れているクラシックがサティのジムノペディに変わった。
クラゲ用の照明だけの薄暗い店内に差し込む西日。
その先にあるソファとテーブルへと扉に立ったままの僕の影が伸びた。
クラゲの写真とキャラメルが転がっているテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》して寝ている女性がいた。
クラゲの水槽を通り抜けた西日に照らされているキャラメル色の髪。
光に青く染まる。
その髪の下で涙に濡れて崩れたメイク。
黒い涙の痕《あと》が頬に残っていた。
まるで都会の深海の底に沈んでしまった人魚姫のようだとコドモみたいに思ってしまった。
その彼女の口が何かを食べているようにもごもごと動いている。
僕の中の悪戯心が少し疼《うず》いた。
テーブルの上のキャラメルの包みを開けて彼女の口に近付ける。
小さな鼻をひくひくさせてウサギみたいだった。
唇にキャラメルを触れさせると、控えめに舌がキャラメルを舐《な》める。
そして指ごと食べられた。
「———痛っ」
反射的に引き抜いた勢いで彼女は、夢からさめた。
「………誰?」
突っ伏していた上半身を起こした彼女は寝ぼけた目をこすりながら尋ねる。
「———椋木です。ここの店員の」
「………ふーん………」
興味なさそうに彼女は言って背伸びをする。
「そう言えば、お姉さんは?」
あくびと一緒に言い終えた彼女が、やっと僕を真っ直ぐ見た。
見覚えのある顔だったけれど、メイクが崩れててよくわからない。
「ただいまー。椋木くん? お客さん起きた?」
背後に聞こえる声に振り返るとコンビニのビニール袋をぶら下げたミオ先輩が戻ってきたのが開けたままの扉から見えた。
「コンビニでお菓子買うついでにメイク落としも買ってきたから、使ってね」
「わぁ! お姉さんありがとー」
袋ごと受け取る彼女は早速崩れたメイクを落とし始めた。
そんな彼女を見ながらミオ先輩は笑顔で鏡を差し出すと、店内の照明を点《つ》けた。
僕は伝票の整理を始めながら、その様子を見ていた。
少しあどけない顔立ち、丸みを帯びた輪郭がメイクをしていたときよりも幼く見える。
押し当てていたシートから現れる長いまつ毛に囲まれた大きくて淡い茶色の虹彩の瞳。
小ぶりながらぷっくりとした唇から、
「すっぴんがそんなに珍しい? 見過ぎじゃない? ちょっとキモいんだけど」
突然、汚い言葉が放たれる。
「………すみません」
「———別にいいけど」
「椋木くんは男兄弟しかいないから珍しいんだよね」
「ふーん。でも母親がメイク落とすところくらいは見たことあるでしょ?」
「うち、母親いないから」
と僕はパソコンから視線を外さないままメールチェックをしていた。
「………そっか。私と似てるね。うちはシングルマザー」
パソコンから視線を彼女に移すと、彼女はにやっと笑った。
「そして私は一人っ子だから、大事に大事に育てられたの」
「………あ、はい。そうですか———」
「嘘《うそ》です、ごめんなさい。………さっきもごめん。言い過ぎた」
「———さっき?」
「キモいって言ったこと」
「あぁ、気にしてないです」
「そっ。それならよかった」
彼女はそう言ってすっかりすっぴんになった笑顔を見せると、ミオ先輩の買ってきたお菓子を食べ始めた。
すぐに次のお菓子を口に運びながらかわいらしいピンク色の手帳型ケースを開きスマホを確認する。
「私そろそろ帰ろうかな。ーーーお姉さんいろいろありがと」
お菓子を頬張ったまま彼女はバッグをつかむと足早に店を出ていった。
次の日の夕方、バイトに入ると見知らぬ女性がエプロンを着けてミオ先輩と話していた。
見知らぬではなかった。
昨日、駅で男とキスをしていたあの女が目の前にいた。
目をかたどるメイクに見覚えがあった。
「あ………」
僕はそのミオ先輩のナチュラルなメイクとは違う濃いめの顔に固まってしまっていた。
「今日からよろしくね。———椋木くん」
「えーっと………」
こんな人種の違うヒトとは話したことがなかった僕は動揺していた。
「シカヤマナシヨ………さん?」
名札のフルネームは、『鹿山梨世』だった。
「カヤマリセ、です」
彼女は笑いながらすぐに否定した。
「すみません」
「昨日ここで会ったじゃん」
「え………昨日のヒト? ———あぁ、すっぴんの」
僕は昨日の記憶を想起した。
確かに言われれば昨日の女の子は彼女に似てなくもない。
「私のすっぴんは高くつくわよ。一緒の大学なんでしょ? 大学でもよろしくね」
「あ、………はい」
正直、一番苦手なタイプだった。
近付いてはいけないとそう思った。
この子を好きになってはいけないと瞬間に思った。
大学で見たあの女子。
まさか同じバイトになるなんて。
「うれしいでしょ?」
僕に笑いかける彼女。
素直になれない。
永遠に接点のない、混じることのないはずの僕らの人生が混じり合う。
***
住んでいるマンションに最寄りの大きな駅から徒歩五分。
クラゲを主に扱うペットショップ『Crystal Jellies』が僕のバイト先だ。
「おはようございます。ミオ先輩」
「あ、椋木くん。おはよう」
事務所から続くその扉からミオ先輩がちょうど出てきた。
静かに扉を閉めて振り返った彼女の長い黒髪がゆっくり揺れる。
「来たばっかりのところ悪いんだけど、お店、少し頼めるかな?」
切りそろえられた前髪の下でメガネの奥の潤んだ瞳が僕を見ていた。
「はい、いいですよ。休憩ですか?」
「うん。ちょっとね。それと、———お客さんがお話している途中に寝ちゃったからよろしくね」
「お客さんがですか?」
「ごめんね。そっとしておいてあげて。それじゃ行ってきます」
財布だけを持ってミオ先輩はいそいそと出ていった。
僕はエプロンを身に着けると、その扉を開けた。
BGMに流れているクラシックがサティのジムノペディに変わった。
クラゲ用の照明だけの薄暗い店内に差し込む西日。
その先にあるソファとテーブルへと扉に立ったままの僕の影が伸びた。
クラゲの写真とキャラメルが転がっているテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》して寝ている女性がいた。
クラゲの水槽を通り抜けた西日に照らされているキャラメル色の髪。
光に青く染まる。
その髪の下で涙に濡れて崩れたメイク。
黒い涙の痕《あと》が頬に残っていた。
まるで都会の深海の底に沈んでしまった人魚姫のようだとコドモみたいに思ってしまった。
その彼女の口が何かを食べているようにもごもごと動いている。
僕の中の悪戯心が少し疼《うず》いた。
テーブルの上のキャラメルの包みを開けて彼女の口に近付ける。
小さな鼻をひくひくさせてウサギみたいだった。
唇にキャラメルを触れさせると、控えめに舌がキャラメルを舐《な》める。
そして指ごと食べられた。
「———痛っ」
反射的に引き抜いた勢いで彼女は、夢からさめた。
「………誰?」
突っ伏していた上半身を起こした彼女は寝ぼけた目をこすりながら尋ねる。
「———椋木です。ここの店員の」
「………ふーん………」
興味なさそうに彼女は言って背伸びをする。
「そう言えば、お姉さんは?」
あくびと一緒に言い終えた彼女が、やっと僕を真っ直ぐ見た。
見覚えのある顔だったけれど、メイクが崩れててよくわからない。
「ただいまー。椋木くん? お客さん起きた?」
背後に聞こえる声に振り返るとコンビニのビニール袋をぶら下げたミオ先輩が戻ってきたのが開けたままの扉から見えた。
「コンビニでお菓子買うついでにメイク落としも買ってきたから、使ってね」
「わぁ! お姉さんありがとー」
袋ごと受け取る彼女は早速崩れたメイクを落とし始めた。
そんな彼女を見ながらミオ先輩は笑顔で鏡を差し出すと、店内の照明を点《つ》けた。
僕は伝票の整理を始めながら、その様子を見ていた。
少しあどけない顔立ち、丸みを帯びた輪郭がメイクをしていたときよりも幼く見える。
押し当てていたシートから現れる長いまつ毛に囲まれた大きくて淡い茶色の虹彩の瞳。
小ぶりながらぷっくりとした唇から、
「すっぴんがそんなに珍しい? 見過ぎじゃない? ちょっとキモいんだけど」
突然、汚い言葉が放たれる。
「………すみません」
「———別にいいけど」
「椋木くんは男兄弟しかいないから珍しいんだよね」
「ふーん。でも母親がメイク落とすところくらいは見たことあるでしょ?」
「うち、母親いないから」
と僕はパソコンから視線を外さないままメールチェックをしていた。
「………そっか。私と似てるね。うちはシングルマザー」
パソコンから視線を彼女に移すと、彼女はにやっと笑った。
「そして私は一人っ子だから、大事に大事に育てられたの」
「………あ、はい。そうですか———」
「嘘《うそ》です、ごめんなさい。………さっきもごめん。言い過ぎた」
「———さっき?」
「キモいって言ったこと」
「あぁ、気にしてないです」
「そっ。それならよかった」
彼女はそう言ってすっかりすっぴんになった笑顔を見せると、ミオ先輩の買ってきたお菓子を食べ始めた。
すぐに次のお菓子を口に運びながらかわいらしいピンク色の手帳型ケースを開きスマホを確認する。
「私そろそろ帰ろうかな。ーーーお姉さんいろいろありがと」
お菓子を頬張ったまま彼女はバッグをつかむと足早に店を出ていった。
次の日の夕方、バイトに入ると見知らぬ女性がエプロンを着けてミオ先輩と話していた。
見知らぬではなかった。
昨日、駅で男とキスをしていたあの女が目の前にいた。
目をかたどるメイクに見覚えがあった。
「あ………」
僕はそのミオ先輩のナチュラルなメイクとは違う濃いめの顔に固まってしまっていた。
「今日からよろしくね。———椋木くん」
「えーっと………」
こんな人種の違うヒトとは話したことがなかった僕は動揺していた。
「シカヤマナシヨ………さん?」
名札のフルネームは、『鹿山梨世』だった。
「カヤマリセ、です」
彼女は笑いながらすぐに否定した。
「すみません」
「昨日ここで会ったじゃん」
「え………昨日のヒト? ———あぁ、すっぴんの」
僕は昨日の記憶を想起した。
確かに言われれば昨日の女の子は彼女に似てなくもない。
「私のすっぴんは高くつくわよ。一緒の大学なんでしょ? 大学でもよろしくね」
「あ、………はい」
正直、一番苦手なタイプだった。
近付いてはいけないとそう思った。
この子を好きになってはいけないと瞬間に思った。
大学で見たあの女子。
まさか同じバイトになるなんて。
「うれしいでしょ?」
僕に笑いかける彼女。
素直になれない。
永遠に接点のない、混じることのないはずの僕らの人生が混じり合う。
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