キャラメルと月のクラゲ
新しくバイトを始めた。
時給千円。夕方18時から22時までの四時間。
私とイズちゃんが一緒に住む部屋の最寄り駅から反対側に徒歩五分。
クラゲが商品のほとんどを占めるペットショップ『Crystal Jellies』が私の新しいバイト先だ。
働き始めてから一週間、4月も下旬になった頃、
「梨世ちゃん。どう? バイトには慣れた?」
私が水槽のクラゲ達に餌をやっているとミオ先輩が話しかけてきた。
「あ、ミオ先輩。そろそろ帰る時間ですよね。お疲れ様です。先輩優しいから色々と勉強になります」
「椋木くんは? ちゃんと教えてくれてる?」
「椋木くんは………教えてくれますよ。仕事のことしか話してませんけど」
「そう。椋木くんらしいね。彼、アナタと一緒で人見知りだから」
「私と一緒、ですか?」
「心を許せる相手としか馴染《なじ》めないのよ。仲よくなるのは大変だったな」
「———そうなんですね」
ミオ先輩はそう言いながら少しさみしそうだった。
「———彼、先輩のこと好きですよね」
「………うん。知ってる。やっぱり、すぐ気付いちゃうよね。バレバレだよね」
「付き合ったりしないんですか?」
「うん。えっと———、椋木くんが好きなのは、私じゃないから」
「え………?」
そう言ったきりミオ先輩はこの話をしなくなった。
「梨世ちゃんは、クラゲのこと好き?」
「———あぁ、正直、わかんないです」
「そうよね。椋木くんもね、クラゲが好きでここの店でバイトしたいって一年くらい前に入ってきたんだけど、その頃はクラゲのことはちっとも好きじゃなかったの」
「そうだったんですか?」
意外だった。
ずっとずっと昔からクラゲが大好きで暗い部屋で水槽をじっと眺めているんだと思ってた。
「それでも、一生懸命クラゲのことを勉強して、家で飼ったりもして、今はもうちゃんとお店を任せられるくらいの知識があるの」
「そうなんですね」
「梨世ちゃんも飼ってみる? 初心者向けの水槽セット、安くしちゃうよ? 従業員割り引き」
「でも、飼うのって大変なんですよね? 椋木くんが言ってました」
「そう。飼ってみると大変なの。水温だけじゃなくて水質、水流にも気をつけなきゃいけない。大変だけど、本気で飼うならそれくらいの苦労は背負わないとね。全部人間のエゴなんだから」
「エゴ、ですか?」
「うん。人間のエゴで水槽に閉じ込められてしまった。ほんとうなら広い広い海の中で自由気ままに泳いでいるはずだったのに」
ミオ先輩は水槽をのぞき込む。
その向こう側には夜の世界が広がっていた。
「水の生き物にとって水槽は、世界の全てなの。だから———水槽、キレイにしてあげてね」
振り返りながら言ったミオ先輩の笑い声は、ひらひらと桜が舞い散るような匂いを連れてきた。
「それじゃ、お先に。戸締まりだけはちゃんとお願いね」
ゆっくりと開かれた裏口から帰っていくミオ先輩。
残されたのは閉店までのあと一時間にお客さんが来ないかという不安と、重い看板を一人でしまわなくてはいけないという重労働だけだった。
「こういう時に休みって使えないなー、椋木くん」
彼が一番気にかけているクラゲ達は食べ残しをすくう網の水流でゆらゆら揺れた。
***
先週のプレゼミの実験結果をまとめたレポートを書き終えたのは日付けが今日に変わってからだった。
バイトを休んで時間を作ったのに思っていたよりも時間がかかってしまった。
まだ講義を受けていない認知心理学の領域である短期記憶に関する記憶ゲームのような実験は興味深かったけれどその結果を自分なりの言葉で説明することはとても難しく感じた。
「ちゃんと書けてると思うよ」
僕らよりも頭がいいカニクリは僕のレポートを読んで珍しく褒めてくれた。
「んで朋弥、新しいバイトの子はかわいいのか?」
ミツさんは彼女がどんな女の子かしか気にならないようだ。
「まあ、それなりに」
「それなりじゃわかんねえよ。芸能人で言うと誰似?」
「芸能人わかんないし」
「マジか………」
「ちょっと、ミツさんうるさい」
「何だよ、カニクリ。委員長キャラかよ」
「2年ダブ男のくせにうるさいのよ。ちゃんとやらないと浪人の次は留年するわよ」
「それは言わないでくれよ、カニクリ。これでも気にしてんだから」
「チャラさだけは他の学生と同じよね。ムダに年だけ食ってる」
「言い方キツいなぁ。そんなんだからカニクリはモテないんだよ」
「モテなきゃいけない理由を聞かせてもらえる? 100文字で。今、すぐ」
「それは無理だな。何たってオレ、小論文苦手だからさ」
「チッ」
最近気付いたカニクリのブラックなキャラはチャラいミツさんといるとおもしろく感じる。
二人ともそれまでは同じ講義を受けていれば顔を合わせるくらいだったのが、4月にプレゼミで一緒になってからは同じグループになったり、こうして雑談したりと気楽な友人関係でいてくれる。
そのおかげで僕は理由のない苛立ちを少し忘れられた。
「あ、そうだ。椋木くん、今日の錯視《さくし》の実験、私とやらない? ミツさんとじゃ気が散るでしょ」
「ん? そうだね。ミツさんうるさいから」
「いやいや二人とも、年上のオレに対する配慮が足らなくね?」
「はいはい。そう言えば来週の月曜って椋木くんのーーー」
珍しいことが続いた。
カニクリの態度もそうだけど、僕のケータイが鳴ったのだ。
誰かから電話がかかってくることはほとんどないのに。
しかも知らない番号から。
「あ、ちょっとごめん」
僕は誰からなのかわからないまま地下一階の教室から抜け出す。
「もしもし?」
「もっしー、椋木くん? 私、梨世。ミオ先輩に番号教えてもらっちゃった」
彼女の声が弾んでいた。
「えーと、どちら様ですか?」
「えー、ひどくなーい? 同じ大学で同じバイトの鹿山梨世だよ」
「あぁー」
「リアクション薄くない? 初めて電話してあげたのに」
「それで、何の用ですか? もうすぐ講義始まるんで」
「よそよそしいなぁ」
僕の頭上だけでチャイムが鳴った。
「ま、いいや。あのね、お願いがあるの。今日のバイト代わって?」
彼女の背後には都会の雑踏が折り重なっている。
「え、無理」
「早っ。そんなこと言わないで! お願い! 一生のお願い!」
耳をくすぐる甘ったるいしゃべり声が、少しだけ僕の気を狂わせる。
電話口で彼女の淡いキャラメル色の髪が揺れる気配がした。
「———で、バイトを代わってしまったと?」
今日の売り上げは上々だった。
常連客のキャバ嬢が新しい水槽とクラゲを客にねだったのだ。
受け取りはいつも飼育代行業者が請け負い、そのキャバ嬢には会ったこともなかった。
「はい………」
レジで現金を数えているミオ先輩がモップがけの手を止めていた僕にあきれた顔を見せた。
「椋木くんは優しいなぁ。私にはちょっと素っ気ないのに」
「そ、そんなことないですよ」
「ほんと? ふぅん。じゃあもう少し優しくしてもらおうかな」
「え?」
「看板しまってきてくれる? 外は雨だし、重いし」
4月も終わりに近付いた第三週、目前に迫ったゴールデンウイークに浮かれる世間の気持ちを醒ますような冷たい雨が降っていた。
「はい。わかりました」
雨の匂いの中にむせかえるような桜と新緑の匂いが混ざり合っている。
静かに打ち付ける雨に耐えながら立て看板をつかむと、その影に何かがいた。
「うおぉ!」
思わず上げた声にもその影は反応することなかった。
水滴に視界を奪われるメガネでじっと見てみると、その影に見覚えがあった。
雨に濡れて張り付いたキャラメル色の髪。
崩れたメイク。
まるで幽霊のような顔色の鹿山梨世だった。
びしょ濡れの彼女は世界の不幸を全部背負っているかのような暗い表情をしていた。
「椋木くん。どうしたの!? ———キャッ!」
声を聞きつけて出てきたミオ先輩が彼女を見付けて驚く。
「え? ………梨世ちゃん? ちょっと………どうしたの?」
「———ミオせんぱ~い」
ずぶ濡れの彼女はそのままミオ先輩に抱き付いた。
「またフラれたー!」
そして彼女は泣きながら、ミオ先輩の胸に顔を埋《うず》めた。
全ての物語は僕の周りでのみ発生し、僕はその中心に存在することもなく、歯車にすらなることはない。
僕が物語の主人公になることはない。
***
時給千円。夕方18時から22時までの四時間。
私とイズちゃんが一緒に住む部屋の最寄り駅から反対側に徒歩五分。
クラゲが商品のほとんどを占めるペットショップ『Crystal Jellies』が私の新しいバイト先だ。
働き始めてから一週間、4月も下旬になった頃、
「梨世ちゃん。どう? バイトには慣れた?」
私が水槽のクラゲ達に餌をやっているとミオ先輩が話しかけてきた。
「あ、ミオ先輩。そろそろ帰る時間ですよね。お疲れ様です。先輩優しいから色々と勉強になります」
「椋木くんは? ちゃんと教えてくれてる?」
「椋木くんは………教えてくれますよ。仕事のことしか話してませんけど」
「そう。椋木くんらしいね。彼、アナタと一緒で人見知りだから」
「私と一緒、ですか?」
「心を許せる相手としか馴染《なじ》めないのよ。仲よくなるのは大変だったな」
「———そうなんですね」
ミオ先輩はそう言いながら少しさみしそうだった。
「———彼、先輩のこと好きですよね」
「………うん。知ってる。やっぱり、すぐ気付いちゃうよね。バレバレだよね」
「付き合ったりしないんですか?」
「うん。えっと———、椋木くんが好きなのは、私じゃないから」
「え………?」
そう言ったきりミオ先輩はこの話をしなくなった。
「梨世ちゃんは、クラゲのこと好き?」
「———あぁ、正直、わかんないです」
「そうよね。椋木くんもね、クラゲが好きでここの店でバイトしたいって一年くらい前に入ってきたんだけど、その頃はクラゲのことはちっとも好きじゃなかったの」
「そうだったんですか?」
意外だった。
ずっとずっと昔からクラゲが大好きで暗い部屋で水槽をじっと眺めているんだと思ってた。
「それでも、一生懸命クラゲのことを勉強して、家で飼ったりもして、今はもうちゃんとお店を任せられるくらいの知識があるの」
「そうなんですね」
「梨世ちゃんも飼ってみる? 初心者向けの水槽セット、安くしちゃうよ? 従業員割り引き」
「でも、飼うのって大変なんですよね? 椋木くんが言ってました」
「そう。飼ってみると大変なの。水温だけじゃなくて水質、水流にも気をつけなきゃいけない。大変だけど、本気で飼うならそれくらいの苦労は背負わないとね。全部人間のエゴなんだから」
「エゴ、ですか?」
「うん。人間のエゴで水槽に閉じ込められてしまった。ほんとうなら広い広い海の中で自由気ままに泳いでいるはずだったのに」
ミオ先輩は水槽をのぞき込む。
その向こう側には夜の世界が広がっていた。
「水の生き物にとって水槽は、世界の全てなの。だから———水槽、キレイにしてあげてね」
振り返りながら言ったミオ先輩の笑い声は、ひらひらと桜が舞い散るような匂いを連れてきた。
「それじゃ、お先に。戸締まりだけはちゃんとお願いね」
ゆっくりと開かれた裏口から帰っていくミオ先輩。
残されたのは閉店までのあと一時間にお客さんが来ないかという不安と、重い看板を一人でしまわなくてはいけないという重労働だけだった。
「こういう時に休みって使えないなー、椋木くん」
彼が一番気にかけているクラゲ達は食べ残しをすくう網の水流でゆらゆら揺れた。
***
先週のプレゼミの実験結果をまとめたレポートを書き終えたのは日付けが今日に変わってからだった。
バイトを休んで時間を作ったのに思っていたよりも時間がかかってしまった。
まだ講義を受けていない認知心理学の領域である短期記憶に関する記憶ゲームのような実験は興味深かったけれどその結果を自分なりの言葉で説明することはとても難しく感じた。
「ちゃんと書けてると思うよ」
僕らよりも頭がいいカニクリは僕のレポートを読んで珍しく褒めてくれた。
「んで朋弥、新しいバイトの子はかわいいのか?」
ミツさんは彼女がどんな女の子かしか気にならないようだ。
「まあ、それなりに」
「それなりじゃわかんねえよ。芸能人で言うと誰似?」
「芸能人わかんないし」
「マジか………」
「ちょっと、ミツさんうるさい」
「何だよ、カニクリ。委員長キャラかよ」
「2年ダブ男のくせにうるさいのよ。ちゃんとやらないと浪人の次は留年するわよ」
「それは言わないでくれよ、カニクリ。これでも気にしてんだから」
「チャラさだけは他の学生と同じよね。ムダに年だけ食ってる」
「言い方キツいなぁ。そんなんだからカニクリはモテないんだよ」
「モテなきゃいけない理由を聞かせてもらえる? 100文字で。今、すぐ」
「それは無理だな。何たってオレ、小論文苦手だからさ」
「チッ」
最近気付いたカニクリのブラックなキャラはチャラいミツさんといるとおもしろく感じる。
二人ともそれまでは同じ講義を受けていれば顔を合わせるくらいだったのが、4月にプレゼミで一緒になってからは同じグループになったり、こうして雑談したりと気楽な友人関係でいてくれる。
そのおかげで僕は理由のない苛立ちを少し忘れられた。
「あ、そうだ。椋木くん、今日の錯視《さくし》の実験、私とやらない? ミツさんとじゃ気が散るでしょ」
「ん? そうだね。ミツさんうるさいから」
「いやいや二人とも、年上のオレに対する配慮が足らなくね?」
「はいはい。そう言えば来週の月曜って椋木くんのーーー」
珍しいことが続いた。
カニクリの態度もそうだけど、僕のケータイが鳴ったのだ。
誰かから電話がかかってくることはほとんどないのに。
しかも知らない番号から。
「あ、ちょっとごめん」
僕は誰からなのかわからないまま地下一階の教室から抜け出す。
「もしもし?」
「もっしー、椋木くん? 私、梨世。ミオ先輩に番号教えてもらっちゃった」
彼女の声が弾んでいた。
「えーと、どちら様ですか?」
「えー、ひどくなーい? 同じ大学で同じバイトの鹿山梨世だよ」
「あぁー」
「リアクション薄くない? 初めて電話してあげたのに」
「それで、何の用ですか? もうすぐ講義始まるんで」
「よそよそしいなぁ」
僕の頭上だけでチャイムが鳴った。
「ま、いいや。あのね、お願いがあるの。今日のバイト代わって?」
彼女の背後には都会の雑踏が折り重なっている。
「え、無理」
「早っ。そんなこと言わないで! お願い! 一生のお願い!」
耳をくすぐる甘ったるいしゃべり声が、少しだけ僕の気を狂わせる。
電話口で彼女の淡いキャラメル色の髪が揺れる気配がした。
「———で、バイトを代わってしまったと?」
今日の売り上げは上々だった。
常連客のキャバ嬢が新しい水槽とクラゲを客にねだったのだ。
受け取りはいつも飼育代行業者が請け負い、そのキャバ嬢には会ったこともなかった。
「はい………」
レジで現金を数えているミオ先輩がモップがけの手を止めていた僕にあきれた顔を見せた。
「椋木くんは優しいなぁ。私にはちょっと素っ気ないのに」
「そ、そんなことないですよ」
「ほんと? ふぅん。じゃあもう少し優しくしてもらおうかな」
「え?」
「看板しまってきてくれる? 外は雨だし、重いし」
4月も終わりに近付いた第三週、目前に迫ったゴールデンウイークに浮かれる世間の気持ちを醒ますような冷たい雨が降っていた。
「はい。わかりました」
雨の匂いの中にむせかえるような桜と新緑の匂いが混ざり合っている。
静かに打ち付ける雨に耐えながら立て看板をつかむと、その影に何かがいた。
「うおぉ!」
思わず上げた声にもその影は反応することなかった。
水滴に視界を奪われるメガネでじっと見てみると、その影に見覚えがあった。
雨に濡れて張り付いたキャラメル色の髪。
崩れたメイク。
まるで幽霊のような顔色の鹿山梨世だった。
びしょ濡れの彼女は世界の不幸を全部背負っているかのような暗い表情をしていた。
「椋木くん。どうしたの!? ———キャッ!」
声を聞きつけて出てきたミオ先輩が彼女を見付けて驚く。
「え? ………梨世ちゃん? ちょっと………どうしたの?」
「———ミオせんぱ~い」
ずぶ濡れの彼女はそのままミオ先輩に抱き付いた。
「またフラれたー!」
そして彼女は泣きながら、ミオ先輩の胸に顔を埋《うず》めた。
全ての物語は僕の周りでのみ発生し、僕はその中心に存在することもなく、歯車にすらなることはない。
僕が物語の主人公になることはない。
***