キャラメルと月のクラゲ
第10話 「私が好きなのはたったひとりのカレ」
聞き覚えのあるクラシックのメロディがヒトの声にかき消されそうになっていた。
「ねえ、カニクリ。この曲って何だっけ?」
12月の第三週の日曜日。
私は前から約束していた先輩の起業記念パーティーにカニクリと一緒に来ていた。
都心にある高層ビルの中のイタリアンビュッフェでは色とりどりの料理とカラフルなドレスの女性とシックなジャケットの男性達が回遊する魚みたいにぐるぐるとしていた。
「曲? あー、エリック・サティのジムノペディかな」
その中で、プリンセスラインの深いサファイアブルーに染められたパーティードレスは肌の白くて黒髪のカニクリによく似合っていた。
「朋弥くんって、確かこの曲好きだよ」
何でもないように言ってカニクリは大皿に盛られたよくわからないパスタを自分の皿に取り分けた。
隣に立っているカニクリの長い黒髪は珍しくアップにまとめられて毛先はくるくると巻かれていた。
露《あら》わになった《《うなじ》》からは何とも言えないフェロモンが出ているようで、私はそこにそっと触れてみた。
もちろん、ただの意地悪だ。
「ちょっと、やめてくれる?」
いつもより濃いめのメイクの彼女が私をかわいらしくにらんでいる。
今思えばカニクリとはずいぶんと仲よくなれた。
私の着ているピンクのドレスもカニクリと色違いにした。
髪もメイクも私とイズちゃんが通っているサロンでアレンジしてもらった。
こういうのが、友達なんだと今は思える。
4月にお互いを知った時はこんなふうに二人で出かけるなんて思えなかった。
「でも意外と年齢層が幅広いのね。あそこにいるのが梨世の先輩でしょ?」
ヒトに囲まれた中で笑顔を振りまいているスーツの男性が私達の視線に気付くと小さく手を振った。
「男女問わず人気なのね。確かに社長とか代表向きかも」
とカニクリがパスタを頬張りながら言った。
「で、あの先輩とは何もないの?」
少し遠回しな表現だった。
いつもなら、
「先輩とセックスしたの?」
と直線的に聞いてきそうだった。
「てかカニクリ、私のことビッチだと思ってるでしょ?」
そんなことを言ったところで私達の距離は変わらないという自信があった。
「うん。思ってる」
カニクリがそう言って笑うと他のOBの先輩が話しかけてきた。
「もうそんなことはないとも思ってるよ」
ひとしきり先輩達と話して離れていくとカニクリが耳打ちした。
「ふーん。じゃあさ、私が紹介してあげるよ。私が手のつけてないヤツ」
「いらない。ていうか、そんなヒトいるの? 梨世が手を出してないヒトなんて」
「いるよ。………たぶん」
「まあ、いたところで紹介されても困るんだけどね」
そう言いながら魚介類がたくさん入ったアクアパッツァのアサリの身を貝から箸《はし》で取り分けて食べていた。
「何か、出入りが多いね。何人くらい来てるのかな」
カニクリの視線の先で入り口のドアが開くと、ちょっとした歓声が起きた。
「あれって、もしかしてモデルのエム?」
「カニクリも知ってるんだ?」
「CMによく出てるよね」
「エム先輩も勉強会のメンバーでね、就活してたんだけど内定もらったんだって。だから最近テレビにも出てるんだって」
いろんなヒトに声をかけられながら歩いていたエム先輩が私を見付けると顔の隣で小さく手を振りながら歩いてくる。
「梨世ちゃん、久しぶり。いつ以来だっけ?」
「エム先輩、お疲れ様です。9月の時以来ですよ。先輩モデルに戻ったから忙しそうですね。今日は、彼氏さん来てないんですか?」
「あ、シュウジ? うん、何かカレも忙しいみたい。で、隣の子は梨世ちゃんのお友達?」
「はい、まあ友達と言えば友達です。カニクリです」
「カニクリ? かわいい名前ね」
「全然、かわいくないですよ」
「えー、かわいいよ。ドレスも梨世ちゃんと色違いなんだね。二人ともかわいい」
「エムさんもドレス素敵ですね。さすがモデルさんですね」
「えー、そうかな? ちょっとセクシーすぎない? 大丈夫?」
「エム先輩はそれくらいセクシーなのが似合いますよ」
私達が話しているとそれまで距離を置いていたオンナの集まりにいつの間にか飲まれていた。
「ほんとう? ありがとう。カニクリちゃんもスタイルいいから似合いそう」
「そんなことないですよ。着やせするタイプなんです」
集団の中心で話しているエム先輩とその会話に合わせているカニクリ。
いつもなら、
「ほら始まった。女子のかわいい合戦」
とか言ってもっとキツい言葉で一蹴してそうだった。
「あ、先輩。私ちょっとトイレ行ってきます」
「うん。またあとでね」
「待って、梨世。私も」
女子の集団から抜け出すと私達は普段よりも高いヒールで転ばないようにゆっくりと歩いた。
「エムさんって梨世と似てるよ」
「ほんと? 美人なとこ?」
「自分で言うなよ。まあ、そうなんだけど」
カニクリが素直に少しだけ笑った。
「たとえば、集まりに少し遅れてくるとか話の中心になるところとか」
「それって計算ってこと?」
「美人だからかな」
「ほんと? カニクリが褒めてくれるなんて珍しいね。ありがとう」
「まあ打算的ってことよね」
「世界は打算と計算でできているのかもね」
「梨世、それってほぼ同じ意味じゃない? 打算は計算高いってことだし、計算は文字通り計算することだし」
「うん、だからたとえばね、目の前でこっちにアピってくる男子と会話しながら大好きな相手にメッセ送ってるみたいな感じ」
「計算高く計算しているってこと? まあ、何となくわからなくはないかな」
そう言い残して私達はそれぞれ個室に入る。
「それで、カレとはどうなの?」
「彼? どの彼?」
ほとんど同じタイミングで出てきた私達は大きな鏡の前で身だしなみを確認する。
「そういう感じならそれでもいいけど」
とカニクリはポーチから取り出した濃いめの赤いリップを塗り直す。
「でも、別れてよかったよ。あんなヤツ」
「………何で?」
私はそのリップを何も言わずに手を出して借りる。
「だって誕生日に何もくれなかったんでしょ? そんなの梨世のこと、もう何とも思ってないってことじゃない?」
「それは、違うよ。ほんとうはくれたの。だけど私がもらえないって言って断ったの。だから、そんなふうにカレのこと悪く言わないで。私にはもったいないくらいのヒトだった」
「………梨世、変わったね」
赤く染まる唇を重ね合わせた私達は仲よしの友達に見えるだろうか。
「前は別れたカレシのこと梨世が悪く言ってたのに」
それとも、親友に見えるだろうか。
「私は、変わってないよ。ただ、カレのこと悪く思ってないだけ」
「それって、今も好きってこと?」
「そう………なのかな」
それとも、ただの恋敵だろうか。
「好きなんだよ。だから、変わったっていいと思うよ」
私が私でなくなったら、何になるんだろうか。
「相手を変えてしまう覚悟と、自分が変わる勇気が必要なんじゃないかな。何をしてほしいじゃなくて、何をしてあげたいか」
私達がトイレからフロアに戻るとそのことに気付いた先輩が近付いてきた。
「梨世、せっかく来てくれたのに話相手もできなくてごめんね」
「いいえ。みなさんの先輩ですから。それに私の話相手ならいますよ。親友のカニクリです」
「はじめまして。カニクリです」
「どうも。梨世とルームシェアしてる子だっけ?」
「あ、違います。その子が今日来れなくて私が代わりに」
「そっか。せっかくだから一緒に話聞いてもらいたかったんだけどな」
「話、ですか?」
先輩が呼んだウエイターから私とカニクリは飲み物を受け取る。
「うん。まだ起業したばかりだから正直不安なこともあるけど、ひとりのオトコとしてちゃんと梨世のこと幸せにする自信があるんだ」
いつの間にか私と先輩の周りをパーティーの参加者が囲んでいた。
「だから、オレと結婚を前提に付き合ってくれないか?」
思ってもみなかった。
私の中に結婚なんて言葉は存在しないから。
それに私は知らないヒトにまで『ビッチ』と揶揄《やゆ》されるようなオンナなのに。
「私は、先輩に相応《ふさわ》しいオンナじゃないですよ」
私の視線の先にいる先輩の表情が少し曇《くも》る。
「今の私に先輩と結婚する資格なんてないんですよ」
「今すぐじゃなくていいんだ。いつかオレと結婚したいって思ってくれるまで待ってるから」
先輩の後ろにいる他の先輩がクラッカーを準備しているのがちらっと見えた。
「先輩。———ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げると、グラスを置いてカニクリの手をつかんで、その場から逃げ出した。
「ねえ、カニクリ。この曲って何だっけ?」
12月の第三週の日曜日。
私は前から約束していた先輩の起業記念パーティーにカニクリと一緒に来ていた。
都心にある高層ビルの中のイタリアンビュッフェでは色とりどりの料理とカラフルなドレスの女性とシックなジャケットの男性達が回遊する魚みたいにぐるぐるとしていた。
「曲? あー、エリック・サティのジムノペディかな」
その中で、プリンセスラインの深いサファイアブルーに染められたパーティードレスは肌の白くて黒髪のカニクリによく似合っていた。
「朋弥くんって、確かこの曲好きだよ」
何でもないように言ってカニクリは大皿に盛られたよくわからないパスタを自分の皿に取り分けた。
隣に立っているカニクリの長い黒髪は珍しくアップにまとめられて毛先はくるくると巻かれていた。
露《あら》わになった《《うなじ》》からは何とも言えないフェロモンが出ているようで、私はそこにそっと触れてみた。
もちろん、ただの意地悪だ。
「ちょっと、やめてくれる?」
いつもより濃いめのメイクの彼女が私をかわいらしくにらんでいる。
今思えばカニクリとはずいぶんと仲よくなれた。
私の着ているピンクのドレスもカニクリと色違いにした。
髪もメイクも私とイズちゃんが通っているサロンでアレンジしてもらった。
こういうのが、友達なんだと今は思える。
4月にお互いを知った時はこんなふうに二人で出かけるなんて思えなかった。
「でも意外と年齢層が幅広いのね。あそこにいるのが梨世の先輩でしょ?」
ヒトに囲まれた中で笑顔を振りまいているスーツの男性が私達の視線に気付くと小さく手を振った。
「男女問わず人気なのね。確かに社長とか代表向きかも」
とカニクリがパスタを頬張りながら言った。
「で、あの先輩とは何もないの?」
少し遠回しな表現だった。
いつもなら、
「先輩とセックスしたの?」
と直線的に聞いてきそうだった。
「てかカニクリ、私のことビッチだと思ってるでしょ?」
そんなことを言ったところで私達の距離は変わらないという自信があった。
「うん。思ってる」
カニクリがそう言って笑うと他のOBの先輩が話しかけてきた。
「もうそんなことはないとも思ってるよ」
ひとしきり先輩達と話して離れていくとカニクリが耳打ちした。
「ふーん。じゃあさ、私が紹介してあげるよ。私が手のつけてないヤツ」
「いらない。ていうか、そんなヒトいるの? 梨世が手を出してないヒトなんて」
「いるよ。………たぶん」
「まあ、いたところで紹介されても困るんだけどね」
そう言いながら魚介類がたくさん入ったアクアパッツァのアサリの身を貝から箸《はし》で取り分けて食べていた。
「何か、出入りが多いね。何人くらい来てるのかな」
カニクリの視線の先で入り口のドアが開くと、ちょっとした歓声が起きた。
「あれって、もしかしてモデルのエム?」
「カニクリも知ってるんだ?」
「CMによく出てるよね」
「エム先輩も勉強会のメンバーでね、就活してたんだけど内定もらったんだって。だから最近テレビにも出てるんだって」
いろんなヒトに声をかけられながら歩いていたエム先輩が私を見付けると顔の隣で小さく手を振りながら歩いてくる。
「梨世ちゃん、久しぶり。いつ以来だっけ?」
「エム先輩、お疲れ様です。9月の時以来ですよ。先輩モデルに戻ったから忙しそうですね。今日は、彼氏さん来てないんですか?」
「あ、シュウジ? うん、何かカレも忙しいみたい。で、隣の子は梨世ちゃんのお友達?」
「はい、まあ友達と言えば友達です。カニクリです」
「カニクリ? かわいい名前ね」
「全然、かわいくないですよ」
「えー、かわいいよ。ドレスも梨世ちゃんと色違いなんだね。二人ともかわいい」
「エムさんもドレス素敵ですね。さすがモデルさんですね」
「えー、そうかな? ちょっとセクシーすぎない? 大丈夫?」
「エム先輩はそれくらいセクシーなのが似合いますよ」
私達が話しているとそれまで距離を置いていたオンナの集まりにいつの間にか飲まれていた。
「ほんとう? ありがとう。カニクリちゃんもスタイルいいから似合いそう」
「そんなことないですよ。着やせするタイプなんです」
集団の中心で話しているエム先輩とその会話に合わせているカニクリ。
いつもなら、
「ほら始まった。女子のかわいい合戦」
とか言ってもっとキツい言葉で一蹴してそうだった。
「あ、先輩。私ちょっとトイレ行ってきます」
「うん。またあとでね」
「待って、梨世。私も」
女子の集団から抜け出すと私達は普段よりも高いヒールで転ばないようにゆっくりと歩いた。
「エムさんって梨世と似てるよ」
「ほんと? 美人なとこ?」
「自分で言うなよ。まあ、そうなんだけど」
カニクリが素直に少しだけ笑った。
「たとえば、集まりに少し遅れてくるとか話の中心になるところとか」
「それって計算ってこと?」
「美人だからかな」
「ほんと? カニクリが褒めてくれるなんて珍しいね。ありがとう」
「まあ打算的ってことよね」
「世界は打算と計算でできているのかもね」
「梨世、それってほぼ同じ意味じゃない? 打算は計算高いってことだし、計算は文字通り計算することだし」
「うん、だからたとえばね、目の前でこっちにアピってくる男子と会話しながら大好きな相手にメッセ送ってるみたいな感じ」
「計算高く計算しているってこと? まあ、何となくわからなくはないかな」
そう言い残して私達はそれぞれ個室に入る。
「それで、カレとはどうなの?」
「彼? どの彼?」
ほとんど同じタイミングで出てきた私達は大きな鏡の前で身だしなみを確認する。
「そういう感じならそれでもいいけど」
とカニクリはポーチから取り出した濃いめの赤いリップを塗り直す。
「でも、別れてよかったよ。あんなヤツ」
「………何で?」
私はそのリップを何も言わずに手を出して借りる。
「だって誕生日に何もくれなかったんでしょ? そんなの梨世のこと、もう何とも思ってないってことじゃない?」
「それは、違うよ。ほんとうはくれたの。だけど私がもらえないって言って断ったの。だから、そんなふうにカレのこと悪く言わないで。私にはもったいないくらいのヒトだった」
「………梨世、変わったね」
赤く染まる唇を重ね合わせた私達は仲よしの友達に見えるだろうか。
「前は別れたカレシのこと梨世が悪く言ってたのに」
それとも、親友に見えるだろうか。
「私は、変わってないよ。ただ、カレのこと悪く思ってないだけ」
「それって、今も好きってこと?」
「そう………なのかな」
それとも、ただの恋敵だろうか。
「好きなんだよ。だから、変わったっていいと思うよ」
私が私でなくなったら、何になるんだろうか。
「相手を変えてしまう覚悟と、自分が変わる勇気が必要なんじゃないかな。何をしてほしいじゃなくて、何をしてあげたいか」
私達がトイレからフロアに戻るとそのことに気付いた先輩が近付いてきた。
「梨世、せっかく来てくれたのに話相手もできなくてごめんね」
「いいえ。みなさんの先輩ですから。それに私の話相手ならいますよ。親友のカニクリです」
「はじめまして。カニクリです」
「どうも。梨世とルームシェアしてる子だっけ?」
「あ、違います。その子が今日来れなくて私が代わりに」
「そっか。せっかくだから一緒に話聞いてもらいたかったんだけどな」
「話、ですか?」
先輩が呼んだウエイターから私とカニクリは飲み物を受け取る。
「うん。まだ起業したばかりだから正直不安なこともあるけど、ひとりのオトコとしてちゃんと梨世のこと幸せにする自信があるんだ」
いつの間にか私と先輩の周りをパーティーの参加者が囲んでいた。
「だから、オレと結婚を前提に付き合ってくれないか?」
思ってもみなかった。
私の中に結婚なんて言葉は存在しないから。
それに私は知らないヒトにまで『ビッチ』と揶揄《やゆ》されるようなオンナなのに。
「私は、先輩に相応《ふさわ》しいオンナじゃないですよ」
私の視線の先にいる先輩の表情が少し曇《くも》る。
「今の私に先輩と結婚する資格なんてないんですよ」
「今すぐじゃなくていいんだ。いつかオレと結婚したいって思ってくれるまで待ってるから」
先輩の後ろにいる他の先輩がクラッカーを準備しているのがちらっと見えた。
「先輩。———ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げると、グラスを置いてカニクリの手をつかんで、その場から逃げ出した。