偽りのヒーロー
その日は閉店までバイトをしていた。
途中、診察を終え病院から戻ってきた奥さまが、行きよりがっちりとウイルス対策をした厳重なマスクを装備していて、菜子は二度見してしまった。
聞けば、子供は風邪のこじらせていたらしいのだが、この時期インフルエンザの患者で溢れており、その対策で、売店で慌ててマスクを購入したと言っていた。
「本当にごめんねー。菜子ちゃん、助かったわー。40℃超えてて病気かと思っちゃって」
「小さい子は大変ですしね。高熱だと脳に影響したら怖いですしね」
「そう! そうなの! 焦っちゃった。ありがとうね、本当に」
辺りがどっぷりと日の静まった頃、仕事帰りで疲弊したサラリーマンたちが、つかつかと歩いていた。店のシャッターを閉めても、まだいくらか仕事が残っているだろう。
しかしながら菜子は未成年のバイトだ、もう帰路に着かねばならない時間だ。
「お疲れさまー! ありがとねー!」
「お先に失礼しまーす」
ぺこりと頭を下げたときには、すっかり涙をためて赤くなった瞼の腫れも引いていた。浮かべた笑顔も、感情通りの、本来のもの。
駅までの道のりを早足で駆け抜けようとすると、ぐっとその手を引かれた。
「菜子。菜子! 待ってって」
いつから待っていたのだろう。紫璃の手は、ずいぶんと冷たかった。いつしかあげた、菜子の手袋ははめられていない。
振り払おうと、菜子が腕に力を込めても、びくともしない非力さに苛々した。
今はその冷たくなった手を、握りしめたくない。温かい自身の体温を、わけることはしたくない。
その手で、あの女性に触れたかと思えば、どうしても、嫌だった。
「待たない。帰るから」
「……ちょっとでいいから。話、したいんだよ。お前、絶対誤解してる」
紫璃は一向に菜子の腕を放そうとはしなかった。それでも菜子は振り返らない。今どんな顔をしているのかが、自分でも想像に及ばなかったからだ。
「いいから放してってば。今紫璃と話したくない」
わずかに弱くなった紫璃の腕を振り切って、一心不乱に帰路についた。
その間、一度も紫璃の顔を見ることはなかったが、今彼はどんな顔をしているのだろうか。それも今は、知りたくない。