偽りのヒーロー
もう補講が始まるというのに、菜子は教科書やらノートやらをカバンに放り込むと、ガタンと音を立てて、席をたった。帰ろうと、しているらしい。
「……未蔓の味噌汁今日みょうが!」
ぷっと笑い出すのは、未蔓だけだった。死ね、とか言わないのが菜子らしい。
匂いと、あの妙な苦さ。味噌汁にいれたらみょうがを取り出してもあと引く味。そんなの嫌いだってわかるの、家族と菜子くらいなのに。
喧嘩しているのに、もう仲直りの準備を初めているみたいで笑えている。うちに今日来るんだな、って言ってるも同然だろう。本当に、わかりやすい。
呆気にとられたままの補講に集中できたのは、未蔓だけかもしれない。様子を窺うように未蔓を見る原田は「何」と一言突きつけられた。
「いや、なんかさ……」
「……菜子は、一之瀬くんとつき合ったら幸せになるんじゃないかしら」
「やめて。それはない。俺は性別未蔓だから」
「ふっ、なにそれ」
「お父さんって男なのに、そういうふうに見ないでしょ。それと同じ」
原田と菖蒲は腑に落ちたように、なるほど、と呟いていたが、紫璃だけは違っていた。
さすがに菜子とつき合っていた、菜子を好きだったのだな、という印象だ。
やはり納得がいかないようで、口を開いていた。
「聞きてえんだけど。お前ほんとに菜子のこと好きじゃねえの?」
「なんで」
「や、だって、お前が一番過保護だろ」
言い得て妙だ。菜子のことはもちろん大事だ。きっとそれは、これからも。
「愛してるんだよ、菜子のこと」
驚いたようで、原田と菖蒲は目を丸くしていた。どうやら信憑性があるほどの、言葉だったのかもしれない。
菜子だったら、笑い飛ばしてくれるところなのに。そう思っていたら、紫璃は涙を浮かべて笑っていた。
「こえーわ。好きよりすげえ」
「でもなんで?」と、言葉を続けなかったけれど、紫璃は未蔓を見ていた。未蔓が話を続けるのを、待っているようだ。
「菜子みたいな人が幸せにならない世界ってまがいものにしか思えない」
未蔓の理想論だけれど、押しつけているのかもしれないけれど。紫璃に言った言葉は本心だった。
俺のヒーローなんだ。
幼馴染でヒーローで。
ハッピーエンドの世界を、あんなフィクションの世界だけじゃなくて、現実で夢がみたい。優しくて、人を守るための仮面をかぶったヒーローが、女の子になるのもまた一興だ。
そろそろ幸せっていうのを、掴むにも頃合いだ。
あとは、菜子が気づくまで。そしてその手を伸ばすまで。