偽りのヒーロー
「ちょっと待ってよかったってなに!」
一息でぺらぺらと言うから、危うくたじろいだ菜子の後頭部が窓にごつんと音を鳴らして抱えていた。俯いて、後頭部を押さえたままの菜子は、顔をあげない。
レオは隣を見ようとしたけれど、コンマ一秒くらいのわずかな時間しか、助手席を見ることができない。菜子が俯いているのしかわからないし、その表情を読み取ることは、許されない。
一方菜子は、やってしまったと顔をあげられないでいた。真っ赤になったその顔を、レオに見せるのが恥ずかしかしい。
久しぶりに顔を見て、声を聞いて、とんだふられ方だな、と指輪を見ると、レオのものではないらしい。ふと安堵した感情が、出てしまった。言葉になって、隠しもできないで。
現実を突きつけられるのが、まだ少し、怖かったから。「危ないよ」と、小さく言ってみせるしかない。
「ねえ、菜子!」
「……レオ、あのさ」
「わー、待って待って! ちょっと待って! 俺今心臓が……」
心の準備ができていない、ということを言いたいらしい。片手で胸元のニットを握りしめて、速くなった鼓動を落ち着けるように、どんどんと叩いている。
「待てよ」と何やら独り言をつぶやいて、胸を叩く手を止めていた。
胸元から離れた手は、再びハンドルに戻すと、レオは恐る恐る口を開いている。
「菜子、お前旦那どうした」
「はあ? 旦那って……私まだ学生だし」
「じゃああの外国人だれ! 一緒に住んでるんじゃないの!?」
「リオとか、直っぴとかから聞かなかったの? 私、夏から留学してたの。ホームステイ先の人だよ。それで今日、帰ってきた」
「……もう、帰らないの?」
「ははっ、レオ、何言ってんの。帰るも何も、私の帰ってくる場所ここなんだけど」
笑っている菜子の言葉が、嘘みたいにクリアに聞こえる。高速道路の高い壁に、車の音が反響しているけれど、そんなの関係ないようだ。
いい雰囲気だなんて甘い気持ちに浸っていると、ぐるぐる料金所に繋がる道路が、情けなくなってくる。かっこよく決まらない、腑抜けな男みたいな感じで。
顔を見たいのに、運転席にいるレオは、真っすぐ前を見ることしかできない。
高速を降りた下道は、ゆっくりとした流れで進んでいるけれど、決して助手席だけに目奪われるのは許されない。
車はAT。
手持ち無沙汰に触ったギアの左手は、ひらひらさせて、今か今かとその次を待っていた。