偽りのヒーロー
何を言ってるんだろう。俺がばかだから、理解力が足りていないのかもしれないけれど。
「ごめん。私、いっつもなんかタイミング悪くて」
笑みを含んだ菜子の言葉が、耳に張りついていた。顔を見なくても、笑っているのがわかる。きっと、肩を揺らして笑っている。
「悪くない」
「ん?」
「悪くない。俺は、タイミングなんかに左右されるような恋はしてない」
菜子の声は、聞こえなくなった。その声が聞きたいから、何か喋ってほしいのに。
「あーもう! ちゅーしたいのにできないじゃん……」
赤信号で止まった車。ハンドル上部に添えられた手の上に、頬をのせて菜子を見た。……やっぱり笑っている。赤い唇が、弧を描いていた。
「……ばか」
「ばかだよ。菜子のことしか考えられないくらいには」
「寄りたいとこあるんだけど」、そういって、菜子の家までの道のりをゆっくり車を転がした。住宅街に入ると、おのずと落ちる車のスピードは、どくどくと脈打つ鼓動とは対極的だ。
コインパーキングに車を止めれば、菜子の手をひいて、あの公園に歩いて行った。高揚した気分が繋いだ手をぶらぶらと勢いよく降ったとしても、その手を振り放されることはなく、握ったままの手は温かい。
寒空の下で、自販機のあたたかいミルクティーを買った。未だに俺は、ブラックコーヒーが苦くて飲めないから。ビールと違う苦さは、なかなか口には会わなくて。
それは菜子が好きな飲み物だから選んだとかじゃない、そんなどうでもいい後付けの理由だった。
「寒い?」
「ううん。イギリスと同じくらい。でもあっちのが雪も雨も多かった」
「え? イギリス行ってたの?」
「そうだけど……え?」
互いに言葉を交わさない間、知らないことが多すぎて、顔を合わせて笑い合った。
目の前にある菜子の顔。体温を感じる手。笑い声。
寒さをしのぐためのミルクティーよりも、ずっと甘い。
「手、繋いでいい?」と聞くと、否定することなくその柔らかい手で包み込まれた。
「ははっ、夢みてー…」
流した涙が、冷たくなった頬には熱い。菜子と繋いだ手を放したくなくて、涙を零したまま俯けば、菜子の開いた手が、目尻を拭っている。
まさに夢のよう。
夢ならば、醒めてほしくないくらい。