偽りのヒーロー



「菜子ー? 菜子ー!」



 自分名前を呼ぶ声が木霊する。ああ、またやってしまったと、見たことのない大きな建物を見上げながら。



「こらっ! 勝手に行かないでって言ったでしょう?」



 そういう母の顔は、怒った鬼の形相ではなく、ふわりと微笑んでいた。頭を撫でると、小さな菜子はにっこり笑って、どこから摘んだのかわからない野花を握りしめている。しゃがみこんで目を合わせた母は、「菜子は本当に花が好きね」と、愛でるような視線を送る。



「でも勝手に歩いちゃだめよ。菜子はすぐ迷うからね。私に似ちゃったのかしら」



 困ったように首を傾げる母は、いつも嬉しそうに笑う。一人で歩くことすらままならないくせに、懲りずに新たな道を進む。そうして何度も怒られては、同じことを繰り返す。それでもいつも母が迎えに来てくれていた。

……迎えにきてくれていたはずなのに、もうその母は、今はいない。







「菜子」

 
 立ち止まる菜子の頭を、未蔓が優しく触れる。現実に引き戻されると、携帯は冷たくなっていた。情けない。その一心が、菜子の顔を俯かせる。

いつまでも弱い自分と、無意識に人を迷惑に巻き込んでしまう自分。いい加減、強くなりたいのに。一人で、地に足をつけて歩きたいのに。



 ポケットから携帯を取り出した未蔓が、「お店の名前は?」と、尋ねる。わからないと、小さく左右に頭を振ると、腕をひかれて真っすぐな道のりを未蔓の後について歩く。



「あの人に聞いてみる」



 少し前を歩く女の人。小さな背中に未蔓が駆け寄るのを、菜子は黙って見ていた。小さくなった未蔓の背中が再び大きくなり、未蔓越しに同じ制服を着た女性がひらひらと手を振っていた。



「案内してくれるって」



 ふわりと笑った未蔓に安堵すると、途端に涙が零れそうになった。迷子になって、探しまわって怒った後の母の笑顔と、少しだけ似ているようで。

いつの間にか大きくごつごつとしている、まるで父の手のようながっしりとした手に安心して、俯いた顔をあげた。



「大丈夫だから」



 何が、と菜子が問うことはなかった。その一言が、一人ではないと菜子を落ち着かせる。頼りない、身長だけが大きくなった菜子を、その身体に腕をまわすことなく安心感をくれるのは、家族だけ。


「ごめんね」と苦笑する菜子に、「ごめんはいらない」と淡々と返す未蔓。いつかしたことのあるこのやりとりに、すっかり頼もしくなったその背中を追った。



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