空の下の笑顔の樹
       ふんふん♪

 結婚式の一週間前の土曜日、今一度、結婚式会場の下見をしておくため、優太と一緒に秘密の丘に向かった。
 もうすぐ私の夫になる優太は相変わらず歩くのが速い。いつもは私と並んで歩いている優太だけど、今日は私の二十メートルくらい先を歩いている。秘密の丘に早く着きたいという気持ちが、自然と歩く速度を早めているのだと思う。私はそんな優太の後ろ姿を見つめながら歩いていき、ふと空を見上げてみた。仲良さそうに寄り添っている二つのハート型の雲が浮かんでいる。目の錯覚ではない。確かにハート型だ。
「優太! 空を見上げてみて!」
 嬉しくなった私は声を張り上げて優太に伝えた。
「わあ、ハート型の雲が浮かんでいるね」
 写真家魂がうずいているのだと思う。優太はその場に立ち止まり、二つのハート型の雲が浮かんでいる空の写真を撮り始めた。私はそんな優太を横目で見ながら、「このまま晴れの日が続きますように」と言って、二つのハート型の雲が浮かんでいる空に向かってお願いしてみた。今日はなんだか良いことがありそうな予感がする。
「あ、私の麦わら帽子が」
 二つのハート型の雲が浮かんでいる空にお願いした直後、急に突風が吹き、私の麦わら帽子が風に飛ばされてしまった。いつもはちゃんとあご紐を首に掛けているのに、今日は浮かれすぎていたためか、あご紐を首に掛けるのを忘れてしまっていたようだ。浮かれていないで気持ちを引き締めなさいと、空さんが教えてくれたのだろうか。きっと、そうだと思う。今は反省している場合じゃない。このままでは私の大切な麦わら帽子が車に弾かれてペシャンコになってしまう。早く取りに行かなければならない。
「菓絵! 後ろからトラックが来てるよ!」
「え…………」
「誰か! 早く救急車を呼んでください! 誰か! 誰か! 早くお願いします!」
 普段は物静かな優太が大声で叫んでいる。私の身に、いったい何が起きたのだろう。
「菓絵! 菓絵! もうすぐ病院に着くからね!」
 優太の大声とともに、救急車のけたたましいサイレンの音が聞こえてくる。返事をしたいのに声が出ない。目の前が真っ暗で何も見えない。
「手は尽くしたのですが、佐藤菓絵さんは、たった今、息を引き取られました。心より、お悔やみを申し上げます」
「そ、そんな……。菓絵はついさっきまで元気だったんですよ! 菓絵が亡くなるわけがありません! 菓絵! 菓絵! 菓絵! お願いだから! 早く返事をしてくれ!」
 遠くの方から、優太の声が聞こえてくる。私はまだ生きているのだろうか。相変わらず目の前は真っ暗で何も見えない。何の香りもしない。体の痛みも感じない。私が亡くなってしまったら、優太はどうなってしまうのだろう。私の駄菓子屋はどうなってしまうのだろう。お客さんはどうなってしまうのだろう。お絵描き教室の子供たちはどうなってしまうのだろう。大好きな優太とずっと一緒に過ごしたかった。秘密の丘で結婚式を挙げたかった。新婚旅行に行きたかった。紙飛行機をもっと飛ばしたかった。空の下の笑顔の樹さんともっと話したかった。絵を描き続けていたかった。写真を撮り続けていたかった。駄菓子屋を続けたかった。お絵描き教室を続けたかった。幸せな時間がいつまでも続くと思っていた。時計の針を戻せるなら、今すぐ戻したい。

「おじいちゃん、おばあちゃん、今日からお世話になります」
「いらっしゃい。菓絵が来てくれて、すごく嬉しいぞ」
 大荷物を持って、祖父母の家に引っ越してきた日の記憶。
「だいぶ料理が上手になってきたな」
「今夜の肉じゃがとほうれん草の和え物は、今まででいちばん美味しいわね」
「おばあちゃんが作り方を丁寧に教えてくれたおかげだよ」
 祖父母と私との三人で晩ご飯を食べていた頃の記憶。
「おじいちゃん、おばあちゃん、おはようございます。今日から私が駄菓子屋を切り盛りしていきますので、お客さんをいっぱい連れてきてくださいね」
 初めて自分の手で駄菓子屋のシャッターを開けた日の記憶。
「こんにちは。いらっしゃい。お客様は、初めてのご来店ですよね?」
「あ、はい。初めてです」
「どうも初めまして。私は、この駄菓子屋を営んでいる佐藤菓絵と申します。お客様のお名前をお伺いしてもよろしいですか」
「あ、はい。僕は、山下優太と申します。初めまして、どうぞよろしくです」
 優太が私の駄菓子屋に初めて来てくれた日の記憶。
「菓絵おばちゃん、もう一回勝負しようよ」
「いいわよ。遠慮なく掛かってきなさい」
 駄菓子の軒先で、元気な子供たちとベーゴマで勝負していたときの記憶。
「鈴木さんの眉毛はもうちょっと細かったかな」
 お客さんの似顔絵を描きまくっていた頃の記憶。
「菓絵おばちゃん、油絵って難しいの?」
「千早ちゃんがいつも描いてる水彩画に比べると、難しいことは難しいんだけど、千早ちゃんが油絵に挑戦してみたいと思っているなら、油絵の描き方を教えてあげるわよ」
「菓絵おばちゃんが教えてくれるなら、油絵に挑戦してみる」
 お絵描き教室の子供たちに、絵の描き方を教えていた日々の記憶。

 祖父母の家に引っ越してきてからの懐かしい記憶が、一瞬のうちに頭の中を駆け巡ってきた。私は、最期の時を迎えてしまったのだろうか。
 おじいちゃん、おばあちゃん、駄菓子屋を続けられなくなってしまって、本当にごめんなさい。私の駄菓子屋に来店してくださったお客さん、お向かいさんのおばあちゃん、ご近所さんのみなさん、街のみなさん、今まで本当にお世話になりました。本当にありがとうございました。みんなのふっちゃんも私のことも忘れないでくださいね。お絵描き教室の子供たち、またいつかの日か、みんなで一緒に絵を描こうね。
「菓絵! 菓絵! 僕の声が聞こえるよね! 愛してるから! ずっとずっと永遠に愛してるから! 必ずまた逢おうね!」
 ……………………優太。私の不注意のせいで、結婚式を挙げられなくなってしまって、本当にごめんなさい。ただただ悔しい想いで一杯です。優太と過ごした日々は、私の人生で最良の日々でした。優太の優しい笑顔も声も温もりも、いつまでも絶対に忘れません。私にたくさんの思い出を与えてくれて、本当にありがとう。私を愛してくれて、本当にありがとう。必ずまた逢おうね。




 

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