空の下の笑顔の樹
 起きてからすぐに窓を開けて空を見上げてみたら、雲ひとつない青空が広がっていた。風が穏やかで暖かくて、どこからか春の香りが漂ってくる。天気予報が外れたのは、あたしが描いたてるてる坊主と太陽さんのおかげだったのだろうか。空さんの気まぐれだったのだろうか。
「お散歩に行ってきまーす!」
「美咲、真奈美、お弁当を忘れてるわよ」
「あ、そうだった。お弁当を持っていかなくちゃ」
「晩ご飯までには帰ってくるのよ」
「はーい!」
 携帯電話とスケッチブックと色鉛筆とお母さんが作ってくれたお弁当を持って、真奈美と一緒にお散歩に出かけた。ちょっとしたハイキング気分。

 ふんふん♪ ふふふん♪ ふふふふふーん♪ 

 ぽかぽか良い天気。鼻歌を歌わずにはいられない。
 
「天気が良くて良かったね」
「うん。太陽さんが眩しいね。今日はどこに行くの?」
「せっかくだから、川まで行ってみない?」
「うん! 川に行こう!」
 家から十キロくらい離れた所に大きな川がある。自転車で行くと一時間二十分くらい。歩いて行くと二時間以上。川に行くときは、いつも自転車で行っている。今日は時間がたっぷりあるので、このまま歩いて川に行くことにした。
 ばいざいブームは終わったのだろうか。全く叫ばなくなった真奈美と川に向かって歩いていき、目に飛び込んできたものを撮りまくってみた。
 
 家の柵の間から顔を出している可愛らしいわんちゃん
 地面に寝そべって、自分の手をペロペロしているネコちゃん
 青空公園のブランコと滑り台と鉄棒
 おじさんとおばさんの家
 あたしが通っていた小学校の校舎
 これから入学する中学校の校舎
 三分咲きの桜の樹
 道路を走っている車とオートバイと観光バス
 電線に止まっているスズメちゃん
 ジュースの自動販売機とタバコの自動販売機

 データフォルダにどんどん画像が増えていく
 
「ちょっと喉が渇いたね」
「うん。コンビニに寄っていこうよ」
 川までの道のりはまだまだ長い。休憩がてらにコンビニに寄って、チョコレートとコーヒー牛乳と麦茶を買った。
 てくてくてくてくてくてく。ちょびっつ休憩。てくてくてくてくてくてく。ちょっちゅ休憩。てくてくてくてくてくてく。ひたすらてくてくてくてくてくてく。
「ふう。やっと着いたね」
 家を出発してから二時間半後、ようやく川に着いた。天気が良いので多くの人が集まっている。
「もうお腹がペコペコだよ」
 真奈美がお腹を押さえながら言った。今日はいつになくいっぱい歩いたので、あたしもお腹がペコペコだ。
「ちょっと時間は早いけど、そこに座ってお弁当を食べようか」
「うん! お弁当を食べよう!」
 川の土手に座って、のんびりと青空を見上げながらお弁当を食べてみた。
 あたしと真奈美の顔を優しく照らしてくれている大きな太陽さん。ぷかぷかと気持ち良さそうに浮かんでいる真っ白い雲さん。空を自由自在に飛び回っている鳥さん。優しい春風に揺られているつくしちゃんにタンポポちゃんに菜の花ちゃん。河川敷で草野球をしているおじちゃんたち。いつも思うことだけど、お弁当は室内で食べるより、青空の下で食べたほうが美味しいと思う。
「今日のお弁当はすごく美味しかったね」
「うん。おにぎりとウインナーがすっごく美味しかった。つぶつぶ太郎、観光バス、ばんざーい!」
 真奈美がいきなり大声で叫んだ。ばんざいブームはまだ終わってなかったようだ。周りの人たちの視線を感じる。
「恥ずかしいからやめてよ」
「恥ずかしくなんかないよう。つぶつぶ太郎、観光バス、ばんざーい!」
 あたしはこのとき思った。人目を気にせず叫んだ真奈美は、いつか大物になるかもしれないと。
 
 お腹が一杯になったところで、携帯電話のカメラを空に向けて、どこまでも澄み渡っている青空の画像を撮りまくってみた。自分の携帯電話で初めて撮った青空の画像。あたしの大切な宝物。
「真奈美、あたしは空の絵を描くから、携帯電話を使っていいよ」
「わーい! やったあ!」
 口の周りにご飯粒をつけたままの真奈美は、待ってましたと言わんばかりの笑顔で、あたしから携帯電話を受け取り、土手の草むらに入っていった。あたしはそんな真奈美を横目で見ながらスケッチブックを開いて、鯨さんのような形の雲が浮かんでいる青空の絵を描き始めた。なんだかよくわからないけど、今日は指の調子が良い。いつもより、すらすら描ける。
「ねえねえ、お姉ちゃん。うちが撮った画像を見てみて」
「うん。見てみるね」
 目を輝かせている真奈美から携帯電話を受け取り、データフォルダを開いてみた。てんとう虫と紋白蝶とミツバチとトンボと毛虫がドアップで映っている。真奈美は昆虫が好きだけど、あたしは昆虫が大の苦手だ。毛むくじゃらの毛虫を見ていると気持ち悪くなってくる。真奈美には悪いけど、毛虫の画像を速攻で削除して、心と目を潤すために視線を真上に上げてみた。あたしの心と目を潤してくれる空さんの力は本当にすごいと思う。
「ねえねえ、お姉ちゃん。せっかく川に来たんだから、川に入って遊ぼうよ」
「んんー。水が冷たそうだから、あたしはやめておくね」
「じゃあ、うちだけで入ってくるね」
「深い所まで行かないようにしなさいね」
「うん。ちょっと入るだけだから、心配しなくても大丈夫だよ」
 真奈美はものすごい勢いで土手を駆け下りていき、砂利の上で靴と靴下を脱いで、ズボンを捲り上げて川に入り、一人で水遊びを始めた。あたしは土手に座ったまま、大きく息を吸い込んで、新鮮な空気を体に取り込み、優しい春風を感じながら、のんびりと青空の絵を描き続けた。

 空のキャンバスに絵を描けたら楽しいだろうな。あたしは空を見上げる度に思う。

 水色と青色の色鉛筆で空を塗っているうちに、鯨さんのような形の雲はどこかにいってしまい、膝に乗せているスケッチブックがオレンジ色に染まり始めてきた。水色と青色で塗ったのにオレンジ色。 
「真奈美! 空を見上げてごらん! 夕焼けがすごく綺麗だよ!」
 川から上がって石切りをして遊んでいる真奈美に知らせてみた。
「わあ、空がオレンジ色に輝いてるね」
 嬉しそうな声で言った真奈美の背中も川の水面もオレンジ色。辺りは一面、オレンジ色に染まっている。
 パシャ! オレンジ色に輝いている空の画像を撮った瞬間に、なんとも言えない不思議な感覚に襲われた。夕焼け空の画像を撮ったのは初めてのはずなのに、以前にもこうやって、夕焼け空の画像を撮っていたような気がする。この場所からではなく、もっと高い所からだ。あたしはいつどこで、夕焼け空の画像を撮っていたのだろう。
「ねえねえ、お姉ちゃん。ちょっと寒くなってきたから、そろそろ帰ろうよ」
 オレンジ色の夕焼け空に見とれているうちに、真奈美があたしの服を引っ張っていた。
「もうちょっとだけ待ってて」
 真奈美に服を引っ張られながら、オレンジ色の夕焼け空を見つめていたとき、頭の中に白いものが映った。ほんの一瞬だったので、白いものが何だったのかはわからない。
「お姉ちゃんってば、早く帰らないと、お母さんに叱られるよ」
 ぼーっと考えているうちに、空は群青色に変わっていた。あたしの服を引っ張っている真奈美の影も自分の影も見えない。
「ごめんごめん。お母さんに電話するから、ちょっと待っててね」
 帰りが遅くなるとお母さんに伝えて、六時過ぎに出発した。





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