空の下の笑顔の樹
あたしは塾に通ったことがないし、学校のクラブにも入ったことがないし、習い事も何もしていなかったので、部活というものがどんな感じなのかわからない。入部届けを出す前に、美術部がどんな感じなのか確かめておくため、お昼休みに美術部の部室をこっそり覗いてみた。真剣な表情で絵を描いているエプロン姿の女性が見える。あたしのお母さんより若くて美人。あの女性が美術部の顧問の先生なのだろうか。
「何か御用かしら?」
ドアの隙間から覗いているあたしの視線に気づいたのか、エプロン姿の女性が声を掛けてきた。まさか見つかるとは思っていなかった。ものすごく恥ずかしい。挨拶もしないで逃げ出したりでもしたら、美術部に入部しづらくなってしまう。あたしはドアを開けて、正々堂々と美術部の部室に入った。絵の具の香りが漂う空間に、エプロン姿の女性とあたしだけ。なんとも言えない緊張感。冷や汗が出てきてしまう。
「お邪魔します。絵を描いている最中に勝手に部室を覗いてしまって、どうもすみませんでした」
あたしは声を震わせながら、エプロン姿の女性に頭を下げて謝った。怒らないでいてくれるだろうか。顔を上げるのが怖い。
「気にしないでいいのよ。顔を上げて、私の顔を見てみて」
「あ、はい」
すぐに顔を上げて、エプロン姿の女性の顔を見てみた。にっこりと微笑んでいる。どうやら怒っていないようだ。あたしの緊張は一気にほぐれた。
「見かけない顔だけど、あなたは新入生なの?」
「はい。今年の春に入学した一年三組の青山美咲です。あたしは美術部に入ろうと思っていまして、入部する前に部室を覗いてみたんです」
「そうだったの。青山さんは美術部の入部希望者なのね。私は美術部の顧問を務めている森川千早よ。初めまして、よろしくね」
にっこりと微笑んだまま、自己紹介をしてくれた森川先生。とっても優しそうな人に見える。
「どうも初めまして。よろしくお願いします。この男性の肖像画は、森川先生が描いていたんですよね?」
「そうよ」
微笑みながら答えてくれた森川先生とは初対面なのに、初めての気がしないし、なんだかとても話しやすい。
「ものすごく上手だと思います。若い男性のように見えますが、モデルはどなたなんですか?」
トレンディドラマに出てくるような、かっこいいイケメン男性の肖像画。誰なのか聞かずにはいられない。
「私の彼氏よ」
「とっても格好良い彼氏さんですね」
「ふふふ。青山さんは、お世辞が上手なのね」
照れ笑いを浮かべた森川先生が、机の上に置かれている鉛筆を握り締めて、彼氏さんの肖像画を描き始めた。口元の描き方がものすごく上手だ。さすが美術の先生。
「私は空いた時間に部室に来て、こうして一人で絵を描くことが日課なの。五時間目の授業が始まるまで、まだ三十分くらいあるから、このまま体験入部してみない?」
「あ、はい。体験入部させていただきます」
絵が上手すぎる森川先生に案内されて、美術部の部室を隅々まで見渡した。
淡い色の空に七色の虹が架かっている絵
巨大な桜餅を食べている桜の樹の絵
ペンギンちゃんがコタツに入って鍋を囲んでいる絵
ピンク色の雲の上で絵を描いている人の絵
一ヶ月が千日もあるカレンダーの絵
今にも動き出しそうな迫力のある恐竜の彫刻
長い剣と大きな盾を持った筋肉隆々の戦士の彫刻
原始人が大きな石のお金を転がしている彫刻
可愛らしい目をしたマンモーちゃんの粘土細工
星型のパイナップルを持っているネコちゃんの粘土細工
ものすごい笑顔のおじさんの粘土細工
まるで美術館や博物館ように、水彩画や油絵などの絵画や木彫りの彫刻や粘土細工などの工芸品が置かれている。どの作品も見事な出来栄えだ。見ているだけで嬉しくなる。
「ここに置かれている美術品は、美術部のみなさんが創作したものなんですか?」
「そうよ。どの作品も個性的で上手でしょ」
「はい。とても個性的で上手だと思います」
美術部の部室に置かれている数々の美術品を見て、ものすごく嬉しくなった。アートが好きな人はいっぱいいる。
「美術部の活動方針は、とにかく自由に創作すること。課題さえこなせば、あとは何をしても自由。来たいときに来て、帰りたいときに帰る。描きたいときに描いて、創りたいときに創る。何を描いてもいいし、何を創ってもいいし、外で創作してもいいのよ。美術部はこんな感じなんだけど、入部してみる?」
若くて美人の森川先生は、先生というより、お姉さんのような感じだし、美術部の雰囲気も良さそうなので、このまま美術部に入部することに決めた。
「入部します!」
「ありがとう。部員が増えて嬉しいわ。この入部届けに記入してね」
あたしの入部を喜んでくれた森川先生から、入部届けの用紙を受け取り、入部動機の欄に、画家になるために、本格的に絵の勉強をしてみようと思いました。と記入してみた。
「青山さんは、画家を目指しているのね」
「はい。あたしも絵を描くことが好きですので、画家になれればいいなと思っています。絵がとてもお上手な森川先生は、画家を目指したことはないんですか?」
「あるわよ。私も子供の頃から絵を描くことが好きだったから、好きなことをやって食べていければいいなと思って、画家を目指したことがあるんだけどね。現実はかなり厳しくて、絵を描いているだけでは食べていけないから、教員免許を取得して、美術の教師になったのよ」
「そうだったんですか。やっぱり、現実は厳しいんですね」
森川先生の話を聞いて、世間の厳しさを痛感した。そう簡単になれるものじゃない。
「才能やセンスや努力の他に、運というものがあるから、なかなか難しいとは思うんだけど、諦めない気持ちは大切ね」
「はい。これからいろんなアートに挑戦して、諦めないで続けていこうと思います」
生半可な気持ちではダメだと思う。絶対に絶対に画家になるんだ! という覚悟が必要だと思う。
「美術部に入ってくれた生徒に聞いてることなんだけど、青山さんは、どうして絵を描くことが好きになったの?」
「それが、自分でもよくわからないんです。お母さんの話によると、あたしは二歳の頃から絵を描き始めたようでして、絵を描いていると、気持ちが落ち着いてくるんです」
「絵というものは、人の心を豊かにする力があるからね」
「そうですね。森川先生は、どうして絵を描くことが好きになったんですか?」
「絵を描くことが好きになったのは、私が子供の頃に出会った人のおかげなの。その人に絵の描き方を教わってから、アートの楽しさがわかるようになってね。今でもこうして絵を描いて、アートを楽しんでいるのよ」
「森川先生には絵の先生がいるんですね。あたしは誰にも教わらずに、ずっと自己流で描いてきましたので、基本的なことがなっていないと思うんです。美術部の部室に飾られている作品を見て、あたしの絵はまだまだお絵描きレベルなんだと思いました」
「若いうちはそれでいいと思うの。美術に関する知識はこれから学んでいけばいいのよ。私の先生が言っていたことなんだけど、アートというものは、時間に縛られないようにして、毎日こつこつ続けていくこと。自分の好きなように自由に創作すること。とにかく楽しむこと。つまらないと感じたり、面倒臭いと思った時点でやめること。私が絵を描いている最中に何度も言ってくれたことなのよ」
「あたしは絵を描いているときに、つまらないと感じたことも面倒臭いと思ったこともありませんので、ずっと続けていけると思います。森川先生の先生は、今でもアートを続けているんですか?」
「それがね、とても残念なことに、私が小学六年生のとき、交通事故に遭って亡くなってしまったの」
あたしが余計なことを聞いてしまったせいで、森川先生の表情が悲しげな表情に変わってしまった。
「そうだったんですか。お会いしてみたかったので、とても残念です」
「逢えるものなら、私も逢ってみたいな」
悲しげな表情のまま、ぽつりとつぶやいた森川先生は、部室の窓を開けて、なんとも言えない表情で空を見つめていた。森川先生の大切な先生……。いったいどんな人だったのだろう。すごく気になるけど、何も聞かないでおくことにした。
「悲しい記憶を思い出させてしまって、どうもすみませんでした」
「気にしないでいいのよ。私の先生は、空の上の世界でアートを楽しんでいると思うの。しんみりした話はここまでにして、私たちもアートを楽しみましょう」
森川先生が笑顔を取り戻してくれたので、あたしはほっと胸を撫で下ろした。
「アートを楽しみたいと思います!」
「五時間目の授業が始まるまで、まだもう少し時間があるから、このキャンバスに絵を描いてみない?」
「あ、はい。何を描けばいいでしょうか?」
「頭の中に思い浮かんだものを、好きなように自由に描けばいいのよ」
「はい。それでは、森川先生の似顔絵を描いてみようと思います」
あたしはちゃんとしたキャンバスに絵を描くのは初めてだし、アートに詳しい森川先生の似顔絵を描くのは緊張する。手の震えを止めるため、いつものように指の体操をして、鉛筆を手渡してくれた森川先生の顔をまじまじと見つめてみた。
「画家を目指している青山さんが、私の顔をどんな風に描いてくれるのか、ものすごく楽しみよ」
にっこりと微笑んでいる森川先生の顔の輪郭は、ほっぺがふっくらとしていて、あごが細くて小さい。目は大きくて、ぱっちりとした二重まぶた。まつ毛が長くて眉毛は薄くて鼻が高くて唇は薄い。髪の毛は黒髪で、さらさらのロングヘアー。前髪は真ん中で分かれている。なんだかよくわからないけど、今日は指の調子がものすごく良い。自分でも驚くほどの速さですらすら描ける。
「描けました」
「もう描けたの? ずいぶん早いわね」
「今日は指の調子が良いみたいなんです。あ、あれ……」
「どうしたの?」
「森川先生の似顔絵を描いたつもりなんですが、全く違う人の顔になってしまいました。ぜんぜん似てなくて、どうもすみません」
「謝らないでいいのよ。私には似ていないけど、とっても可愛らしい少女ね。目の描き方も鼻の描き方も唇の描き方もすごく上手よ」
「森川先生に褒められて、ものすごく嬉しいです。自分で言うのもなんですが、あたしは人の顔を描くことが得意なんです」
「そうだったの。人の表情を、こんなに繊細なタッチで描ける人と出会ったのは、かなり久しぶりよ。青山さんは本当に自己流で描いてきたの? 誰かに絵の描き方を教わったんじゃない?」
「本当に誰にも教わっていないんです。あたしは常日頃から、人の似顔絵を描いていますので、自然と身についたのだと思います」
「そっか。その描き方は、自分で習得したものなのね」
「はい。そうだと思います。もうすぐ五時間目の授業が始まりますが、森川先生は授業の準備をしなくても大丈夫なんですか?」
「私は、五時間目は空きなのよ」
「そうだったんですか。それでは、あたしはそろそろ教室に戻ります」
「うん。私に付き合ってくれて、どうもありがとう。すごく楽しかったわ。それじゃあ、また放課後にね」
「はい。六時間目の授業が終わったら、すぐに来ますね。楽しい時間をありがとうございました」
明るい笑顔でドアを開けてくれた森川先生にお辞儀をして廊下に出た。似顔絵は描き間違えてしまったけど、美術部の顧問の森川先生が、あたしのことを気に入ってくれたようなので、とっても気分が良い。
ふんふん♪ ふふふん♪ ふふふふふーん♪
鼻歌の調子も絶好調。
「何か御用かしら?」
ドアの隙間から覗いているあたしの視線に気づいたのか、エプロン姿の女性が声を掛けてきた。まさか見つかるとは思っていなかった。ものすごく恥ずかしい。挨拶もしないで逃げ出したりでもしたら、美術部に入部しづらくなってしまう。あたしはドアを開けて、正々堂々と美術部の部室に入った。絵の具の香りが漂う空間に、エプロン姿の女性とあたしだけ。なんとも言えない緊張感。冷や汗が出てきてしまう。
「お邪魔します。絵を描いている最中に勝手に部室を覗いてしまって、どうもすみませんでした」
あたしは声を震わせながら、エプロン姿の女性に頭を下げて謝った。怒らないでいてくれるだろうか。顔を上げるのが怖い。
「気にしないでいいのよ。顔を上げて、私の顔を見てみて」
「あ、はい」
すぐに顔を上げて、エプロン姿の女性の顔を見てみた。にっこりと微笑んでいる。どうやら怒っていないようだ。あたしの緊張は一気にほぐれた。
「見かけない顔だけど、あなたは新入生なの?」
「はい。今年の春に入学した一年三組の青山美咲です。あたしは美術部に入ろうと思っていまして、入部する前に部室を覗いてみたんです」
「そうだったの。青山さんは美術部の入部希望者なのね。私は美術部の顧問を務めている森川千早よ。初めまして、よろしくね」
にっこりと微笑んだまま、自己紹介をしてくれた森川先生。とっても優しそうな人に見える。
「どうも初めまして。よろしくお願いします。この男性の肖像画は、森川先生が描いていたんですよね?」
「そうよ」
微笑みながら答えてくれた森川先生とは初対面なのに、初めての気がしないし、なんだかとても話しやすい。
「ものすごく上手だと思います。若い男性のように見えますが、モデルはどなたなんですか?」
トレンディドラマに出てくるような、かっこいいイケメン男性の肖像画。誰なのか聞かずにはいられない。
「私の彼氏よ」
「とっても格好良い彼氏さんですね」
「ふふふ。青山さんは、お世辞が上手なのね」
照れ笑いを浮かべた森川先生が、机の上に置かれている鉛筆を握り締めて、彼氏さんの肖像画を描き始めた。口元の描き方がものすごく上手だ。さすが美術の先生。
「私は空いた時間に部室に来て、こうして一人で絵を描くことが日課なの。五時間目の授業が始まるまで、まだ三十分くらいあるから、このまま体験入部してみない?」
「あ、はい。体験入部させていただきます」
絵が上手すぎる森川先生に案内されて、美術部の部室を隅々まで見渡した。
淡い色の空に七色の虹が架かっている絵
巨大な桜餅を食べている桜の樹の絵
ペンギンちゃんがコタツに入って鍋を囲んでいる絵
ピンク色の雲の上で絵を描いている人の絵
一ヶ月が千日もあるカレンダーの絵
今にも動き出しそうな迫力のある恐竜の彫刻
長い剣と大きな盾を持った筋肉隆々の戦士の彫刻
原始人が大きな石のお金を転がしている彫刻
可愛らしい目をしたマンモーちゃんの粘土細工
星型のパイナップルを持っているネコちゃんの粘土細工
ものすごい笑顔のおじさんの粘土細工
まるで美術館や博物館ように、水彩画や油絵などの絵画や木彫りの彫刻や粘土細工などの工芸品が置かれている。どの作品も見事な出来栄えだ。見ているだけで嬉しくなる。
「ここに置かれている美術品は、美術部のみなさんが創作したものなんですか?」
「そうよ。どの作品も個性的で上手でしょ」
「はい。とても個性的で上手だと思います」
美術部の部室に置かれている数々の美術品を見て、ものすごく嬉しくなった。アートが好きな人はいっぱいいる。
「美術部の活動方針は、とにかく自由に創作すること。課題さえこなせば、あとは何をしても自由。来たいときに来て、帰りたいときに帰る。描きたいときに描いて、創りたいときに創る。何を描いてもいいし、何を創ってもいいし、外で創作してもいいのよ。美術部はこんな感じなんだけど、入部してみる?」
若くて美人の森川先生は、先生というより、お姉さんのような感じだし、美術部の雰囲気も良さそうなので、このまま美術部に入部することに決めた。
「入部します!」
「ありがとう。部員が増えて嬉しいわ。この入部届けに記入してね」
あたしの入部を喜んでくれた森川先生から、入部届けの用紙を受け取り、入部動機の欄に、画家になるために、本格的に絵の勉強をしてみようと思いました。と記入してみた。
「青山さんは、画家を目指しているのね」
「はい。あたしも絵を描くことが好きですので、画家になれればいいなと思っています。絵がとてもお上手な森川先生は、画家を目指したことはないんですか?」
「あるわよ。私も子供の頃から絵を描くことが好きだったから、好きなことをやって食べていければいいなと思って、画家を目指したことがあるんだけどね。現実はかなり厳しくて、絵を描いているだけでは食べていけないから、教員免許を取得して、美術の教師になったのよ」
「そうだったんですか。やっぱり、現実は厳しいんですね」
森川先生の話を聞いて、世間の厳しさを痛感した。そう簡単になれるものじゃない。
「才能やセンスや努力の他に、運というものがあるから、なかなか難しいとは思うんだけど、諦めない気持ちは大切ね」
「はい。これからいろんなアートに挑戦して、諦めないで続けていこうと思います」
生半可な気持ちではダメだと思う。絶対に絶対に画家になるんだ! という覚悟が必要だと思う。
「美術部に入ってくれた生徒に聞いてることなんだけど、青山さんは、どうして絵を描くことが好きになったの?」
「それが、自分でもよくわからないんです。お母さんの話によると、あたしは二歳の頃から絵を描き始めたようでして、絵を描いていると、気持ちが落ち着いてくるんです」
「絵というものは、人の心を豊かにする力があるからね」
「そうですね。森川先生は、どうして絵を描くことが好きになったんですか?」
「絵を描くことが好きになったのは、私が子供の頃に出会った人のおかげなの。その人に絵の描き方を教わってから、アートの楽しさがわかるようになってね。今でもこうして絵を描いて、アートを楽しんでいるのよ」
「森川先生には絵の先生がいるんですね。あたしは誰にも教わらずに、ずっと自己流で描いてきましたので、基本的なことがなっていないと思うんです。美術部の部室に飾られている作品を見て、あたしの絵はまだまだお絵描きレベルなんだと思いました」
「若いうちはそれでいいと思うの。美術に関する知識はこれから学んでいけばいいのよ。私の先生が言っていたことなんだけど、アートというものは、時間に縛られないようにして、毎日こつこつ続けていくこと。自分の好きなように自由に創作すること。とにかく楽しむこと。つまらないと感じたり、面倒臭いと思った時点でやめること。私が絵を描いている最中に何度も言ってくれたことなのよ」
「あたしは絵を描いているときに、つまらないと感じたことも面倒臭いと思ったこともありませんので、ずっと続けていけると思います。森川先生の先生は、今でもアートを続けているんですか?」
「それがね、とても残念なことに、私が小学六年生のとき、交通事故に遭って亡くなってしまったの」
あたしが余計なことを聞いてしまったせいで、森川先生の表情が悲しげな表情に変わってしまった。
「そうだったんですか。お会いしてみたかったので、とても残念です」
「逢えるものなら、私も逢ってみたいな」
悲しげな表情のまま、ぽつりとつぶやいた森川先生は、部室の窓を開けて、なんとも言えない表情で空を見つめていた。森川先生の大切な先生……。いったいどんな人だったのだろう。すごく気になるけど、何も聞かないでおくことにした。
「悲しい記憶を思い出させてしまって、どうもすみませんでした」
「気にしないでいいのよ。私の先生は、空の上の世界でアートを楽しんでいると思うの。しんみりした話はここまでにして、私たちもアートを楽しみましょう」
森川先生が笑顔を取り戻してくれたので、あたしはほっと胸を撫で下ろした。
「アートを楽しみたいと思います!」
「五時間目の授業が始まるまで、まだもう少し時間があるから、このキャンバスに絵を描いてみない?」
「あ、はい。何を描けばいいでしょうか?」
「頭の中に思い浮かんだものを、好きなように自由に描けばいいのよ」
「はい。それでは、森川先生の似顔絵を描いてみようと思います」
あたしはちゃんとしたキャンバスに絵を描くのは初めてだし、アートに詳しい森川先生の似顔絵を描くのは緊張する。手の震えを止めるため、いつものように指の体操をして、鉛筆を手渡してくれた森川先生の顔をまじまじと見つめてみた。
「画家を目指している青山さんが、私の顔をどんな風に描いてくれるのか、ものすごく楽しみよ」
にっこりと微笑んでいる森川先生の顔の輪郭は、ほっぺがふっくらとしていて、あごが細くて小さい。目は大きくて、ぱっちりとした二重まぶた。まつ毛が長くて眉毛は薄くて鼻が高くて唇は薄い。髪の毛は黒髪で、さらさらのロングヘアー。前髪は真ん中で分かれている。なんだかよくわからないけど、今日は指の調子がものすごく良い。自分でも驚くほどの速さですらすら描ける。
「描けました」
「もう描けたの? ずいぶん早いわね」
「今日は指の調子が良いみたいなんです。あ、あれ……」
「どうしたの?」
「森川先生の似顔絵を描いたつもりなんですが、全く違う人の顔になってしまいました。ぜんぜん似てなくて、どうもすみません」
「謝らないでいいのよ。私には似ていないけど、とっても可愛らしい少女ね。目の描き方も鼻の描き方も唇の描き方もすごく上手よ」
「森川先生に褒められて、ものすごく嬉しいです。自分で言うのもなんですが、あたしは人の顔を描くことが得意なんです」
「そうだったの。人の表情を、こんなに繊細なタッチで描ける人と出会ったのは、かなり久しぶりよ。青山さんは本当に自己流で描いてきたの? 誰かに絵の描き方を教わったんじゃない?」
「本当に誰にも教わっていないんです。あたしは常日頃から、人の似顔絵を描いていますので、自然と身についたのだと思います」
「そっか。その描き方は、自分で習得したものなのね」
「はい。そうだと思います。もうすぐ五時間目の授業が始まりますが、森川先生は授業の準備をしなくても大丈夫なんですか?」
「私は、五時間目は空きなのよ」
「そうだったんですか。それでは、あたしはそろそろ教室に戻ります」
「うん。私に付き合ってくれて、どうもありがとう。すごく楽しかったわ。それじゃあ、また放課後にね」
「はい。六時間目の授業が終わったら、すぐに来ますね。楽しい時間をありがとうございました」
明るい笑顔でドアを開けてくれた森川先生にお辞儀をして廊下に出た。似顔絵は描き間違えてしまったけど、美術部の顧問の森川先生が、あたしのことを気に入ってくれたようなので、とっても気分が良い。
ふんふん♪ ふふふん♪ ふふふふふーん♪
鼻歌の調子も絶好調。