空の下の笑顔の樹
似顔絵大会の後は雑談タイムとなり、森川先生も輪に加わって、アートの話題や学校の先生の話などで盛り上がった。先輩部員のみなさんもおしゃべり好きなよう。寺川先輩のマシンガントーク炸裂。
「今日は、ここまでにします」
森川先生の合図で部活が終わり、先輩部員のみなさんが部室から出ていった。窓の外はすっかり暗くなっている。生徒の声は聞こえない。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。出来ることなら、このまま美術部の部室で暮らしたい。でも、そういうわけにはいかない。とても親切にしてくれた森川先生にお辞儀をして、あたしも部室から出た。夜の学校はなんだか怖い。おしっこしたいけど、家に帰るまで我慢我慢。
今日はラッキーデーなのかもしれない。家に帰ったら、お母さんが千円札を二枚も手渡してくれた。月のお小遣いが千二百円から一気に二千円にアップ。
「お姉ちゃんだけずるいよ。うちにも二千円ちょうだいよ」
お母さんに文句を言ってる真奈美の月のお小遣いは、千二百円。八百円も差がついたことが気に食わないのだと思う。
「中学生になると、新しい友達が出来たりで、活動の幅が広がるから、いろいろとお金が掛かるのよ。真奈美も中学生になったら、二千円に上げるから、あと一年待ってなさい」
お母さんが言ったことは、まさにそのとおり。
「ええー。あと一年も待つの? そんなに待ったら、うちはよぼよぼのうっかりおばあちゃんになっちゃうよ」
またくだらない冗談を言ってる真奈美はほっといて、お父さんがプレゼントしてくれたスケッチブックに、森川先生と先輩部員のみなさんと自分の似顔絵を描いてみた。あたしの大切なアート仲間たち。明日が楽しみで仕方がない。
「つぶつぶ太郎、観光バス、ばんざーい!」
真奈美のばんざいブームはいつまで続くのか。あたしには全く予測がつかない。大人になっても叫んでいるのだろうか。姉として心配になる。
あたしが美術部に入部した三日後に、一年一組の伊藤穂乃果さんと一年四組の野口瑞希さんが美術部に入部してくれて、一年生部員はあたしを含めて三人になった。四コマ漫画が得意な伊藤さんの将来の夢は漫画家。粘土細工が得意な野口さんの将来の夢は陶芸家。アート仲間がどんどん増えていく。
天気の良い日は外で絵を描いて、雨の日は部室で創作して、木彫りの彫刻や粘土細工にも挑戦していき、家に帰ってからも絵を描いた。アート、アート、アート。あたしの頭の中は、アートでいっぱい。他のことは何も考えられない。
ふふふん♪
絵の描き方も、彫刻の彫り方も、粘土細工の作り方も、難しい美術用語も、優しく丁寧に教えてくれる森川先生と美術部のみんなと一緒にアートライフを満喫しているうちに、中学校に入ってから初めての中間テストの日がやって来た。
初日が国語と数学と社会。二日目が英語と理科。あたしはアートに夢中になっていたばかりに、勉強はほとんどしてこなかった。国語も数学も社会も英語も理科も全くと言っていいほど自信がない。入学式の夜、ちゃんと勉強もすると言ったのに、中間テストの結果が悪すぎたら、お母さんに叱られてしまう。
「よーい、始め」
張り詰めた緊張感が漂う中、試験官の先生の合図で国語のテストが始まった。零点だけは避けるため、やる気を出して、鉛筆を握り締めてみたものの、どの問題もさっぱりわからない。このままでは零点確実だ。どうするあたし……。今さらあがいても仕方がない。中間テストは諦めて、期末テストを頑張るしかない。
美咲ちゃん、私の言うことをよく聞いてね。画家を目指している美咲ちゃんにとって、絵を描くことはとても大切なことだと思うけど、勉強も大切なのよ。諦めないで、問題を解いてみて。
あくびをしながら鉛筆で鼻をほじっていたとき、どこからか声が聞こえてきた。川に行った帰りに、道に迷ってしまったあたしと真奈美を導いてくれた声と同じ声。教室内は静まり返っていて、あたしの右隣の席の石山くんも左隣の席の里崎くんも、真剣な表情で問題用紙を見つめている。不思議な声は、あたしにだけ聞こえたのだろうか。
鉛筆で鼻をほじるのはやめて、国語の問題用紙を見つめてみた。不思議なことに、指が勝手に動く。どの問題もすらすら解ける。不思議に思いながらも、勝手に動く指に任せて答えを書き続けた。
二科目目の数学も、三科目目の社会も、四科目目の英語も、五科目目の理科も、指が勝手に動き、どの問題もすらすら解けた。あたしはこんなに頭が良かったのか。自分でもびっくり仰天だ。本当に不思議で不思議で仕方がない。
今日は、中間テストの答案用紙が返ってくる日。勝手に動く指に任せて答えを書き込んでみたものの、答えが合っているのかどうかはわからない。出来ることなら、中間テストの答案用紙を受け取りたくない。このままずっと家にいたい。でも、学校に行かないと、お母さんに叱られてしまう。出るのはため息と鼻水ばかりだ。
「今から中間テストの答案用紙を返します。先生に名前を呼ばれた生徒は、大きな声で返事をして、答案用紙を受け取りに来てください。まずは男子生徒からです。相川くん」
「はい」
国語の川中先生に呼ばれた生徒が椅子から立ち上がり、中間テストの答案用紙を受け取りに行っていた。喜んでいる人もいれば、複雑そうな顔をしている人もいれば、泣きそうな顔をしている人もいる。あたしは答案用紙を受け取ったとき、どんな顔をしているのだろう。点数が悪すぎて、泣きそうな顔になってしまうのだろうか。とにかく不安で不安で仕方がない。
「次は女子生徒です。磯崎さん」
「はい」
あたしの出席番号は女子の一番なのに、なぜか飛ばされてしまった。川中先生は、あたしのことを忘れてしまったのだろうか。
「渡辺さん」
「はい」
女子の出席番号最後の渡辺さんが呼ばれたのに、なぜかあたしだけ呼ばれない。川中先生は、本当にあたしのことを忘れてしまったのだろうか。点数が悪すぎて、あとで職員室に呼び出されて、叱られてしまうのだろうか。どうするあたし……。
「テストの答案用紙に、さとうかえと書いた生徒はいますか?」
あたしはまだ自分の名前を呼ばれていない。答案用紙を受け取っていない。さとうかえと書いたのは……。あたし?
「川中先生、あたしだと思います」
答案用紙を受け取るため、勇気を出して椅子から立ち上がり、不思議そうな顔をしている川中先生に言ってみた。クラスのみんなの視線を感じる。恥ずかしくてたまらない。
「さとうかえと書いたのは、青山さんだったのね。この学校に、さとうかえという生徒はいないから、ずっと不思議に思ってたのよ。青山さんは、自分の名前を忘れてしまったのですか?」
「いいえ、忘れていません」
「いくら点数が高くても、自分の名前を書き間違えてしまったら、何もならないのよ」
「はい。本当にすみませんでした」
「反省しているようなので、今回は大目に見ます。次からは気をつけてくださいね」
「はい。次からは気をつけます」
厳しく叱らないでいてくれた川中先生から答案用紙を受け取り、恥ずかしさを堪えながら自分の席に着席した。確かに佐藤菓絵と書かれている。自分の名前を書き間違えたことなんて、今まで一度もなかったのに、どうしてあたしは佐藤菓絵と書いてしまったのか。自分でも何がなんだかさっぱりわからない。本当に不思議で不思議で仕方がない。
あたしの中間テストの結果は、国語が九十八点。数学が九十四点。社会が百点満点。英語が九十二点。理科が八十八点。目玉が飛び出しそうなくらい、びっくり仰天、高得点。アートにばかり夢中になっていたあたしが、こんな高得点を取れるわけがない。中間テストの結果を冷静に振り返り、こう思った。あたしは自分の力で問題を解いたんじゃない。佐藤菓絵さんという人が、問題を解いてくれたのだと。
あたしの中の私……。あたしの中の佐藤菓絵さん……。
もしも本当に、あたしの中に佐藤菓絵さんという人がいるなら、あたしの声に反応してくれるかもしれない。
「あ、あの……。初めまして、こんにちは。あたしは青山美咲と申します。中間テストの問題を解いてくださって、どうもありがとうございました」
自分に話し掛けて、佐藤菓絵さんの声を聞き取るため、耳を研ぎ澄ませてみた。
十分間くらい待ってみたものの、佐藤菓絵さんの声はどこからも聞こえてこない。不思議なことも起こらない。佐藤菓絵さんは、あたしの中にはいないのだろうか。佐藤菓絵さんとは、いったい誰なのか。私に関係ある人なのか。いくら考えてもわからない。思い当たる節は何もない。なんだかすごく怖い。どうにもこうにも落ち着かない。
「今日は、ここまでにします」
森川先生の合図で部活が終わり、先輩部員のみなさんが部室から出ていった。窓の外はすっかり暗くなっている。生徒の声は聞こえない。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。出来ることなら、このまま美術部の部室で暮らしたい。でも、そういうわけにはいかない。とても親切にしてくれた森川先生にお辞儀をして、あたしも部室から出た。夜の学校はなんだか怖い。おしっこしたいけど、家に帰るまで我慢我慢。
今日はラッキーデーなのかもしれない。家に帰ったら、お母さんが千円札を二枚も手渡してくれた。月のお小遣いが千二百円から一気に二千円にアップ。
「お姉ちゃんだけずるいよ。うちにも二千円ちょうだいよ」
お母さんに文句を言ってる真奈美の月のお小遣いは、千二百円。八百円も差がついたことが気に食わないのだと思う。
「中学生になると、新しい友達が出来たりで、活動の幅が広がるから、いろいろとお金が掛かるのよ。真奈美も中学生になったら、二千円に上げるから、あと一年待ってなさい」
お母さんが言ったことは、まさにそのとおり。
「ええー。あと一年も待つの? そんなに待ったら、うちはよぼよぼのうっかりおばあちゃんになっちゃうよ」
またくだらない冗談を言ってる真奈美はほっといて、お父さんがプレゼントしてくれたスケッチブックに、森川先生と先輩部員のみなさんと自分の似顔絵を描いてみた。あたしの大切なアート仲間たち。明日が楽しみで仕方がない。
「つぶつぶ太郎、観光バス、ばんざーい!」
真奈美のばんざいブームはいつまで続くのか。あたしには全く予測がつかない。大人になっても叫んでいるのだろうか。姉として心配になる。
あたしが美術部に入部した三日後に、一年一組の伊藤穂乃果さんと一年四組の野口瑞希さんが美術部に入部してくれて、一年生部員はあたしを含めて三人になった。四コマ漫画が得意な伊藤さんの将来の夢は漫画家。粘土細工が得意な野口さんの将来の夢は陶芸家。アート仲間がどんどん増えていく。
天気の良い日は外で絵を描いて、雨の日は部室で創作して、木彫りの彫刻や粘土細工にも挑戦していき、家に帰ってからも絵を描いた。アート、アート、アート。あたしの頭の中は、アートでいっぱい。他のことは何も考えられない。
ふふふん♪
絵の描き方も、彫刻の彫り方も、粘土細工の作り方も、難しい美術用語も、優しく丁寧に教えてくれる森川先生と美術部のみんなと一緒にアートライフを満喫しているうちに、中学校に入ってから初めての中間テストの日がやって来た。
初日が国語と数学と社会。二日目が英語と理科。あたしはアートに夢中になっていたばかりに、勉強はほとんどしてこなかった。国語も数学も社会も英語も理科も全くと言っていいほど自信がない。入学式の夜、ちゃんと勉強もすると言ったのに、中間テストの結果が悪すぎたら、お母さんに叱られてしまう。
「よーい、始め」
張り詰めた緊張感が漂う中、試験官の先生の合図で国語のテストが始まった。零点だけは避けるため、やる気を出して、鉛筆を握り締めてみたものの、どの問題もさっぱりわからない。このままでは零点確実だ。どうするあたし……。今さらあがいても仕方がない。中間テストは諦めて、期末テストを頑張るしかない。
美咲ちゃん、私の言うことをよく聞いてね。画家を目指している美咲ちゃんにとって、絵を描くことはとても大切なことだと思うけど、勉強も大切なのよ。諦めないで、問題を解いてみて。
あくびをしながら鉛筆で鼻をほじっていたとき、どこからか声が聞こえてきた。川に行った帰りに、道に迷ってしまったあたしと真奈美を導いてくれた声と同じ声。教室内は静まり返っていて、あたしの右隣の席の石山くんも左隣の席の里崎くんも、真剣な表情で問題用紙を見つめている。不思議な声は、あたしにだけ聞こえたのだろうか。
鉛筆で鼻をほじるのはやめて、国語の問題用紙を見つめてみた。不思議なことに、指が勝手に動く。どの問題もすらすら解ける。不思議に思いながらも、勝手に動く指に任せて答えを書き続けた。
二科目目の数学も、三科目目の社会も、四科目目の英語も、五科目目の理科も、指が勝手に動き、どの問題もすらすら解けた。あたしはこんなに頭が良かったのか。自分でもびっくり仰天だ。本当に不思議で不思議で仕方がない。
今日は、中間テストの答案用紙が返ってくる日。勝手に動く指に任せて答えを書き込んでみたものの、答えが合っているのかどうかはわからない。出来ることなら、中間テストの答案用紙を受け取りたくない。このままずっと家にいたい。でも、学校に行かないと、お母さんに叱られてしまう。出るのはため息と鼻水ばかりだ。
「今から中間テストの答案用紙を返します。先生に名前を呼ばれた生徒は、大きな声で返事をして、答案用紙を受け取りに来てください。まずは男子生徒からです。相川くん」
「はい」
国語の川中先生に呼ばれた生徒が椅子から立ち上がり、中間テストの答案用紙を受け取りに行っていた。喜んでいる人もいれば、複雑そうな顔をしている人もいれば、泣きそうな顔をしている人もいる。あたしは答案用紙を受け取ったとき、どんな顔をしているのだろう。点数が悪すぎて、泣きそうな顔になってしまうのだろうか。とにかく不安で不安で仕方がない。
「次は女子生徒です。磯崎さん」
「はい」
あたしの出席番号は女子の一番なのに、なぜか飛ばされてしまった。川中先生は、あたしのことを忘れてしまったのだろうか。
「渡辺さん」
「はい」
女子の出席番号最後の渡辺さんが呼ばれたのに、なぜかあたしだけ呼ばれない。川中先生は、本当にあたしのことを忘れてしまったのだろうか。点数が悪すぎて、あとで職員室に呼び出されて、叱られてしまうのだろうか。どうするあたし……。
「テストの答案用紙に、さとうかえと書いた生徒はいますか?」
あたしはまだ自分の名前を呼ばれていない。答案用紙を受け取っていない。さとうかえと書いたのは……。あたし?
「川中先生、あたしだと思います」
答案用紙を受け取るため、勇気を出して椅子から立ち上がり、不思議そうな顔をしている川中先生に言ってみた。クラスのみんなの視線を感じる。恥ずかしくてたまらない。
「さとうかえと書いたのは、青山さんだったのね。この学校に、さとうかえという生徒はいないから、ずっと不思議に思ってたのよ。青山さんは、自分の名前を忘れてしまったのですか?」
「いいえ、忘れていません」
「いくら点数が高くても、自分の名前を書き間違えてしまったら、何もならないのよ」
「はい。本当にすみませんでした」
「反省しているようなので、今回は大目に見ます。次からは気をつけてくださいね」
「はい。次からは気をつけます」
厳しく叱らないでいてくれた川中先生から答案用紙を受け取り、恥ずかしさを堪えながら自分の席に着席した。確かに佐藤菓絵と書かれている。自分の名前を書き間違えたことなんて、今まで一度もなかったのに、どうしてあたしは佐藤菓絵と書いてしまったのか。自分でも何がなんだかさっぱりわからない。本当に不思議で不思議で仕方がない。
あたしの中間テストの結果は、国語が九十八点。数学が九十四点。社会が百点満点。英語が九十二点。理科が八十八点。目玉が飛び出しそうなくらい、びっくり仰天、高得点。アートにばかり夢中になっていたあたしが、こんな高得点を取れるわけがない。中間テストの結果を冷静に振り返り、こう思った。あたしは自分の力で問題を解いたんじゃない。佐藤菓絵さんという人が、問題を解いてくれたのだと。
あたしの中の私……。あたしの中の佐藤菓絵さん……。
もしも本当に、あたしの中に佐藤菓絵さんという人がいるなら、あたしの声に反応してくれるかもしれない。
「あ、あの……。初めまして、こんにちは。あたしは青山美咲と申します。中間テストの問題を解いてくださって、どうもありがとうございました」
自分に話し掛けて、佐藤菓絵さんの声を聞き取るため、耳を研ぎ澄ませてみた。
十分間くらい待ってみたものの、佐藤菓絵さんの声はどこからも聞こえてこない。不思議なことも起こらない。佐藤菓絵さんは、あたしの中にはいないのだろうか。佐藤菓絵さんとは、いったい誰なのか。私に関係ある人なのか。いくら考えてもわからない。思い当たる節は何もない。なんだかすごく怖い。どうにもこうにも落ち着かない。