空の下の笑顔の樹
       ふふふん♪
 
 六月五日土曜日。風が少し強いけど、気持ちの良い青空が広がっている。あたしの中の菓絵さんは、どんな気持ちでいるのだろう。うきうきしているのだろうか。ドキドキしているのだろうか。菓絵さんの声は聞こえない。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 優しい笑顔の森川先生に見送られ、あたしは学校を後にした。
 電車をニ本乗り継いで、あたしが四歳まで暮らしていた街に降り立ち、駅前のコンビニに寄って、おにぎりとカレーパンと納豆とチョコレートとコーヒー牛乳を買った。ちょっとしたピクニック気分。
 
 ふんふん♪ ふふふん♪ ふふふふふーん♪ 

 爽やかな青空の下、鼻歌を歌いながら地図を片手に歩いていき、三時前に秘密の丘の下に着いた。青山家が八年前まで暮らしていたアパートも周りの家も当時のまま。なんだかすごく懐かしい。
 パシャ! 携帯電話のカメラで懐かしのアパートの画像を撮って、スクールバッグから大切な写真を取り出した。あたしのすぐ目の前に、菓絵さんと優太さんが通っていた秘密の丘がある。優太さんは来ているだろうか。あたしが菓絵さんの生まれ変わりだということを、優太さんにうまく説明できるだろうか。優太さんは、あたしの言うことを信じてくれるだろうか。緊張しながら秘密の丘の斜面をゆっくりと登っていった。
「よし、投げるぞ」
 秘密の丘にいる人は、キャッチボールをして遊んでいる子たちと犬の散歩をしているおばさんとあたしだけ。優太さんらしき人の姿はどこにも見当たらない。まだ三時十七分。来るのが早過ぎたのかもしれないと考えたあたしは、空の下の笑顔の樹の下に座り、ちょっと遅めのお昼ご飯を食べながら、優太さんが来るのを待った。
 どこまでも透き通っている青空。形を変えながら、ゆっくりと流れていく白い雲。太陽さんの優しい陽射し。初夏の爽やかな風。あたしもこの丘の上でよく遊んでいた。なんとも言えない懐かしさがこみ上げてくる。あたしが感じている懐かしさは、菓絵さんが感じている懐かしさでもある。本当に不思議な感覚。
 なんとも言えない不思議な感覚に浸りながら、ぼーっと空を見上げているうちに、遠くの空がオレンジ色に染まり始めてきて、頭の中に白いものが映った。菓絵さんと優太さんの思い出の地にいるからなのか。今日はくっきりと映った。白いものの正体は紙飛行機。菓絵さんと優太さんは、秘密の丘の上から紙飛行機を飛ばしていたのだと思う。
 白いものの正体がわかって嬉しくなり、ノートの紙で紙飛行機を折って、オレンジ色の夕焼け空に向かって飛ばしてみた。遠くの山に沈んでいく夕日の光に照らされて、キラキラと輝きながら飛んでいった紙飛行機。すごく良い絵になると思う。
 自分で飛ばした紙飛行機の画像を撮っているうちに、辺りがだんだん暗くなってきて、群青色の空に星が輝き始めた。待てども待てども、優太さんは来ない。あたしの携帯電話の時刻は、八時五十三分。あまり帰りが遅くなると、家族が心配するので、今日は諦めて帰ることにした。
 
 土曜日だけ部活を休ませてもらい、優太さんが来てくれると信じて、毎週土曜日の午後に秘密の丘に通い続けた。
「あの、すみません。この写真の男性を見かけたことはありませんか?」
 空の下の笑顔の樹の下に座って待っているだけでは何もならないので、秘密の丘にいる人に、優太さんの写真を見せてみた。
「見かけたことはないわ」
「そうですか。どうもありがとうございました」
 二十年前の写真だから、見てもわからないのだろうか。どの人も見かけたことはないと言っていた。菓絵さんがお亡くなりになられてから、二十年もの歳月が流れている。優太さんはもう、秘密の丘に通っていないのだろうか。
 
 今日で四週間目。この日も空の下の笑顔の樹の下に座り、ぼーっと空を見上げながら、優太さんが来るのを待ち続けた。
 水色からオレンジ色から群青色へ。空の色は、時の流れとともに変わっていき、ただただ虚しい時間だけが過ぎていく。
 あたしの顔を優しく照らしてくれている、まんまるのお月さんを見つめながら、八時過ぎまで待ってみたものの、優太さんは今日も来なかった。
「はあ、お腹が空いたな。そろそろ帰ろうかな」

 こんばんは。今日はもう帰るのかい?

 立ち上がって家に帰ろうとしたとき、どこからか声が聞こえてきた。菓絵さんの声ではなく、少年のような声。秘密の丘の上にはあたししかしない。今の声は、誰の声だったのだろう。

 君は、確か、美咲ちゃんだったよね。急に話し掛けてごめんね。びっくりするよね。

 不思議な声の出所を探ろうと、耳を澄ませながら周りを見回していたとき、空の下の笑顔の樹の方から、さっきの声と同じ声が聞こえてきた。確かに、「美咲ちゃん」と言っていた。決して空耳などではなく、はっきりと聞き取ることが出来た。あたしの名前を知っているのは……。
「こんばんは。あの、あたしに話し掛けてくれたのは、空の下の笑顔の樹さんですか?」
「そうだよ。どうやら気づいてくれたようだね」
 なんとも不思議なことに、あたしが話し掛けたら、すぐに返事が返ってきた。確かに空の下の笑顔の樹さんの方から聞こえてきた。あたしは不思議に思いながらも、空の下の笑顔の樹さんと会話をしてみることにした。
「あの、空の下の笑顔の樹さんは、人と話せるんですか?」
「うん。話せるよ」
「そうなんですか。人と話せるなんて、すごいですね」
「いやいや、大したことはないよ」
 あたしと会話をしている空の下の笑顔の樹さんには、目も鼻も口も耳もない。どうして樹が人と話せるのか、本当に不思議で不思議で仕方がない。
「まさか、空の下の笑顔の樹さんが、人と話せるなんて思ってもいませんでしたので、本当に驚きました」
「まあ、誰でも驚くよね」
「はい。誰でも驚くと思います」
 あたしは本当に空の下の笑顔の樹さんと会話をしている。自分でも信じられない。
「空の下の笑顔の樹さんは、ついさっき、あたしのことを美咲ちゃんと呼んでくれましたよね? どうしてあたしの名前を知っているんですか?」
「美咲ちゃんのお父さんとお母さんが、君のことを美咲ちゃんて呼んでいたのを聞いていたからさ。ちなみに、美咲ちゃんの妹の真奈美ちゃんも知ってるよ」
「あたしたち姉妹のことを覚えていてくれたんですね」
「うん。覚えているよ。大きくなったね」
「はい。あたしは中学一年生になりました」
「そうかい。中学生になったのかい。さっきから気になっていたことなんだけど、美咲ちゃんは、どうして空の下の笑顔の樹という名前を知っているんだい?」
「この写真の裏側に書かれてあったからです」
 秘密の丘の写真を空の下の笑顔の樹さんに見せてみた。
「ああ、それで、空の下の笑顔の樹という名前を知っているんだね。美咲ちゃんは、菓絵ちゃんと優太くんの知り合いなのかい?」
「知り合いというわけではないんですが、森川先生を通じて知ったんです」
「森川先生とは、誰のことかな?」
「あたしが通っている中学校の美術の先生で、菓絵さんのお絵描き教室に通っていた森川千早さんのことです」
「ああ、千早ちゃんね」
「空の下の笑顔の樹さんは、森川先生のことも知っているんですね」
「うん。知ってるよ。千早ちゃんも、この丘に来たことがあるからね。美咲ちゃんは、どうしてこの丘に通い続けているんだい? 何か訳でもあるのかい? よかったら、話してもらえないかな」
「はい。ちょっと複雑な事情がありまして」
 あたしが秘密の丘に通い続けている訳を、空の下の笑顔の樹さんに話してみた。
「そんないきさつがあったのかい」
「はい。自分でも本当に不思議です。空の下の笑顔の樹さんは、菓絵さんがお亡くなりになられたことを知っているんですね」
「うん。知ってるよ。優太くんから聞いたからね」
「そうだったんですか。優太さんは、今でもこの丘に来ているんですか?」
「うん。たまに来ているよ」
「来ているんですね! 優太さんが来ている日は! 何日なのかわかりますか!」
 優太さんが秘密の丘に来ていることがわかって興奮したあたしは、丘全体に響き渡るような大きな声で、空の下の笑顔の樹さんに聞いてみた。





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