空の下の笑顔の樹
       ふふふん♪
 
 七月十五日木曜日。今日という日は、菓絵さんにとっても、優太さんにとっても、森川先生にとっても、空の下の笑顔の樹さんにとっても、あたしにとっても、とても大切な日になる。二十年もの時を超えた菓絵さんと優太さんの想い。あたしの責任は重大だ。今まで以上に気持ちを引き締めなければならない。
 今日も朝から晴れ。あたしが秘密の丘に行く日はいつも晴れている。あたしの中の菓絵さんの祈りと願い。スケッチブックにてるてる坊主と太陽さんの絵を描く必要はない。
 あたしのスクールバッグの中には、菓絵さんと優太さんの思い出の写真。ホームセンターで買ったスコップ。小型の懐中電灯。折りたたみ式のレジャーシート。ハンドタオル。お母さんがネットで買ってくれた五円チョコとチョコっと太郎。コーヒー牛乳の入った水筒。準備は万端。
「会議が終わったら、すぐに行くからね」
「はい。それでは行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 今日も優しい笑顔で見送ってくれた森川先生は、定例会議があるとのことで、後から来ることになり、あたし一人だけで秘密の丘に向かった。
 この一歩一歩が菓絵さんと優太さんの距離を縮めることになる。もうすぐ優太さんに逢える。あたしの中の菓絵さんも優太さんに逢える。
 
 ふんふん♪ ふふふん♪ ふふふふふーん♪ 

 緊張をほぐすため、鼻歌を歌いながら、いつもの道を歩いていき、遠くの空がオレンジ色に染まり始めてきた頃、秘密の丘の下に着いた。
 この斜面を登り切れば……。なんとも言えない緊張感。暑さとは別の汗が体中から噴き出してくる。あたしの汗は菓絵さんの汗。あたしの心臓の鼓動は菓絵さんの心臓の鼓動。鼻歌を歌う余裕も、五円チョコとチョコっと太郎を食べる余裕も、コーヒー牛乳を飲む余裕もない。
 ふう。ふう。ふう。気持ちを落ち着かせるため、何度も何度も深呼吸をして、ハンドタオルで顔の汗を拭いた後、オレンジ色の空を見上げながら、秘密の丘の斜面をゆっくりと登り始めた。
 秘密の丘の頂上まで、あと百歩くらい。あたしの緊張は最高潮。いくら深呼吸しても、高鳴る心臓の鼓動を抑えられない。全身から冷や汗が噴出してくる。汗だくのままで優太さんに逢うわけにはいかない。
 ふう。ふう。ふう。ふう。ふう。斜面の途中で立ち止まり、深呼吸をしながらハンドタオルで顔の汗を拭いていたとき、秘密の丘の上から、白いものが飛んできた。
 オレンジ色の夕陽の光に照らされて、キラキラと輝きながら飛んでいる白いものは、だんだんあたしの方に近づいてくる。時間が止まっているのではないかと錯覚してしまうほど、ゆっくりとゆっくりと飛んでいる。白いものは、ゆっくりと降下していき、あたしの目の前にふわりと着地した。
 真っ白い紙飛行機。翼の部分に青色の文字が書かれている。秘密の丘の上から飛んできた紙飛行機を拾って読んでみた。

   永遠に愛しの菓絵へ 

 二百三十七通目の紙飛行機の手紙だよ。
 菓絵と再会できる日を楽しみにしているからね。
 また一緒に紙飛行機を飛ばそうね。
 菓絵と優太は、いつまでも一緒だよ。
 菓絵に届いていると信じて、来月も飛ばすからね。
 幸せな孤独から、幸せなふたりへ。
 いつの日か必ず。
 
 翼の部分に書かれている文字を読み終えたとき、秘密の丘の上から、麦わら帽子姿の男性が駆け下りてきた。その姿はだんだん大きくなってくる。あたしの方に向かって真っ直ぐに走ってくる。緑色のTシャツにデニムの半ズボン。頭には麦わら帽子。あの男性が、山下優太さんなのだろうか。
「こんにちは。僕の紙飛行機を拾ってくださいまして、ありがとうございます」
 僕の紙飛行機……。確かにそう聞こえた。この男性が、山下優太さん。あたしが持っている写真より、だいぶ老けている。でも、写真の面影が残っている。あたしはやっと優太さんに逢えた。なんとも言えない嬉しさがこみ上げてくる。初めて会ったのに、初めてじゃない気がする。優太さんの優しい笑顔を見ていると、気持ちが落ち着いてくる。なんだかすごく安心する。

 菓絵さん、あたしの心の声が聞こえますか。優太さんに逢えましたよ。とてもお元気そうですよ。本当に良かったですね。

 返事はなかったけれど、あたしの中の菓絵さんも、ものすごく喜んでいると思う。

「初めまして。あたしは、青山美咲と申します。あなたは、山下優太さんですか?」
 一応、確認のために聞いてみた。
「はい。山下優太です。青山さんは、どうして僕の名前をご存知なんですか?」
 優太さんとあたしは今日が初対面。優太さんが不思議がるのも無理はないと思う。
「話すと長くなるんです」
「そうですか。この場所で立ち話もなんですので、丘の上に行きませんか?」
「はい。紙飛行機をお返ししますね」
「どうもありがとうございます」
 恥ずかしそうに受け取ってくれた優太さんの後に続いて、秘密の丘の斜面をゆっくりと登っていった。空の下の笑顔の樹さんの下に、麦わら帽子が置かれている。菓絵さんの麦わら帽子なのだろうか。写真のものと似ているように見える。
「あの樹の下に座って話しましょうか」
 優太さんが空の下の笑顔の樹さんに指を指した。
「あ、はい」
 緊張しながら返事をして、空の下の笑顔の樹さんの下に座った。あたしの隣に座っている優太さんが被っている麦わら帽子をよく見てみたら、所々に穴が開いていて、青色のテープリボンが破けていた。
「青山さんは、中学生なんですか?」
「はい。中学一年生です」
 空の下の笑顔の樹さんは、優太さんにもあたしにも話し掛けてこない。今日はやけに無口だ。
「美咲ちゃんって呼んでもいいかな?」
「はい。美咲と呼んでください。優太さんと呼んでもいいですか?」
「いいよ。さっそくだけど、話を聞かせてもらえるかな」
「あ、はい」
 ただただ緊張するばかり。この日のために、説明の練習を何度もしてきたのに、いざ説明するとなると、何から話していいのかわからなくなってしまう。
「あ、あの、この写真を見ていただけませんか?」
 口で説明するより、写真を見せたほうが早いと思い、ニ枚の写真を優太さんに手渡してみた。
「あ、この写真は……」
 小さな声でぽつりとつぶやいた優太さんは、驚いたような顔で写真を見つめている。
「美咲ちゃんは、どうしてこの写真を持ってるの?」
 優太さんが不思議そうな顔で聞いてきた。とにかく落ち着いて、冷静に説明しなけばならない。
「その二枚の写真は、森川千早先生にいただいたものなんです」
「森川千早先生? もしかして、千早ちゃんのことかな?」
「はい。千早ちゃんのことです」
「美咲ちゃんは、千早ちゃんのことを知っているんだね」
「はい。森川先生は、あたしが通っている中学校の美術の先生なんです」
「千早ちゃんは、学校の先生になったんだ」
 当時のことを懐かしんでいるのだろうか。優太さんが嬉しそうな顔をしている。
「森川先生は、美術部の顧問を務めていまして、あたしは、美術部の部員なんです」
「そうなんだ。僕のことは、千早ちゃんに聞いたんだね」
「はい。あたしにアルバムを見せてくれまして、いろんなお話を聞かせてくれました。森川先生も、この丘に来ることになっているんですよ」
「そうなんだ。千早ちゃんは、何時くらいに来るのかな?」
「八時くらいに来ると言っていました」
「あと一時間半くらいだね」
 嬉しそうな顔のまま、腕時計に目をやった優太さんは、森川先生との対面を心待ちにしているのだと思う。
「二十年振りの再会ですね」
「もう、そんなになるんだな」
 ここまではなんとか説明できている。問題はこれから先だ。あたしが菓絵さんの生まれ変わりだということは、森川先生が来てから伝えるべきなのか。この流れのまま伝えるべきなのか。どうするあたし……。
「あ、あの、今日は、優太さんにとても大切なことをお伝えするために来たんです」
「とても大切なこととは、どんなことかな?」
 優太さんの表情が真剣な表情に変わった。ちょっと話しにくい雰囲気だけど、言ってしまったからには、説明しなければならない。
「今から言うことは……。あの、その、何て言ったらいいのか……。落ち着いて聞いていただけますか」
 話す側のあたしはガチガチに緊張。
「う、うん。どんな話でも落ち着いて聞くね」
 聞く側の優太さんも緊張しているように見える。
「そ、それでは話します。あ、あの……。あたしは……。佐藤菓絵さんの生まれ変わりなんです」
「……………………」
 優太さんは、一瞬、顔を曇らせ、無言のまま顔を上に上げた。急に現われた女子中学生の言ったこと。変な少女だと思わてしまっただろうか。
「ふう」
 沈黙の時間が続いた後、優太さんが小さくため息をついた。なんとも言えない表情で、顔を上げたままの優太さんは、何を想い、何を考えているのだろう。
「いくつか質問してもいいかな?」
「あ、はい。菓絵さんにお願いしてみますので、ちょっと待っててくださいね」
 たぶん、優太さんは、あたしが本当に菓絵さんの生まれ変わりなのかを確かめるため、菓絵さんにしかわからないことを聞いてくると思う。あたしは、菓絵さんと優太さんのことは、森川先生から聞いたことしかわからない。優太さんの質問に答えられるのは、あたしの中の菓絵さんだけ。





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