空の下の笑顔の樹
「改良に改良を重ねた結果、この形にたどり着きました。それでは飛ばしてみましょう」
「はい。どうやって飛ばせばいいですか?」
「菓絵さんの利き手で紙飛行機を持って、野球のボールを投げるような感じで、あの美しい夕焼け空に向かって、おもいっきり飛ばせばいいと思います」
「わかりました」
 紙飛行機を折ることも上手な優太さんに教えてもらったとおり、私の利き手の右手で紙飛行機を持って、野球のボールを投げるような感じで、腕を大きく後ろに振りかぶってみた。背中から優しい風を感じる。風向きは追い風。
「あの美しい夕焼け空に向かって、どこまでも飛んでゆけー」
 優太さんの掛け声とともに、真っ白い紙飛行機をおもいっきり飛ばしてみた。
 紙飛行機歴の長い優太さんが飛ばした紙飛行機も、紙飛行機初心者の私が飛ばした紙飛行機も、夕陽の光に照らされて、キラキラと輝きながら飛んでいき、緩やかな斜面の上にふわりと着地した。飛距離にして、三十メートルくらいは飛んだだろうか。いや、もっと遠くまで飛んだかもしれない。紙飛行機は、こんなによく飛ぶものだったのか。と驚いてしまうほどの飛距離だった。
「すごく飛びましたね」
「はい。もしかしたら、新記録かもしれません。紙飛行機を拾ってきますので、ちょっと待っててくださいね」
 とっても機嫌が良さそうな優太さんは、軽やかな足取りで丘を下っていき、二機の紙飛行機を回収して、笑顔で走って戻ってきた。
「紙飛行機を飛ばすのも、とっても楽しいですね」
「はい。楽しんでもらえて良かったです。この二機の紙飛行機は、菓絵さんにプレゼントしますね。記念に持っていてください」
 優太さんがにっこりと微笑みながら、ついさっき飛ばした二機の紙飛行機を私に手渡してくれた。
「どうもありがとうございます。家に帰ったら、部屋に飾りますね」
 嬉しくなった私は、空の下の笑顔の樹の下に置いてあるスケッチブックを切り離して、さっき描き上げた絵を優太さんに手渡してみた。
「また僕の絵を描いてくれたんですね。すごく嬉しいです。家に帰ったら、部屋の壁に飾ろうと思います」
 私が描いた絵を、いつも喜んで受け取ってくれる優しい人柄の優太さん。こんなに喜んでもらえると、また描いてみようという気持ちになれる。
「少し風が冷たくなってきましたが、この秘密の丘からは、星空も綺麗に見えますので、空の下の笑顔の樹の下に座って、星空を眺めてから帰りましょうか」
「はい。どんな星空が見られるのか楽しみです」
 優太さんと私は再び空の下の笑顔の樹の下に座り、駄菓子の残りを食べているうちに、空がオレンジ色から群青色に変わってきて、いろんな色の星が輝き始めた。
 優太さんと私の顔を優しく照らしてくれているまんまるのお月さん。オレンジ色の星。黄色の星。赤色の星。白色の星。青色の星。青白い光を放っている星。私の家の窓から見える星空とは比べものにならないほどの美しい星空。私はこうして男性と二人きりで星空を見上げたのはいつ以来だろう。思い出せないくらいだから、生まれて初めてなのかもしれない。
「とっても美しい星空ですね」
「満天の星空とまではいきませんが、秘密の丘の空気はとても澄んでいますので、平地よりも多くの星が見えるのだと思います」
 月明かりの下で、優しく微笑んでいる優太さんの顔も、夜空に浮かんでいる星のように見える。
「もうすぐ八時になりますし、風がだいぶ冷たくなってきましたので、そろそろ家に帰りましょうか」
「はい。お腹も減ってきましたからね」
 帰りが遅くならないように、私に気を遣ってくれたのだと思う。優太さんは勢いよく立ち上がり、カメラの三脚をケースに入れて帰り支度を始めた。私の心を癒してくれた秘密の丘から離れるのは、ちょっと名残惜しいけど、優太さんと一緒に帰るため、私も立ち上がって帰り支度を始めた。
「今日もありがとう。また来週も来るからね」
 帰り支度を済ませた優太さんは、麦わら帽子を脱いで、空の下の笑顔の樹に向かって挨拶をしていた。
「どうもお世話になりました。私もまた来ますね」
 私も麦わら帽子を脱いで、空の下の笑顔の樹に向かって挨拶をした。返事は返ってこなかったけど、私の顔と名前も覚えてくれたと思う。
 
 優太さんも私も麦わら帽子を被り直し、行きと同じ道を歩いて駅に向かい、電車を二本乗り継いで、地元の街に戻った。駅の時計の時刻は九時三十八分。私はこんな時間まで外に居るのはかなり久しぶりのこと。
「優太さん、あのラーメン屋さんに寄って、食事をしていきませんか?」
「はい。僕もラーメンを食べたいと思っていたところです」
 ぐーぐー、きゅるるるるー。と鳴り続けているお腹を満たすため、笑顔で返事をしてくれた優太さんと駅前の商店街にあるラーメン屋さんに入った。
「菓絵ちゃん、山下くん、いらっしゃい」
 カウンター席に座った私と優太さんに声を掛けてきたラーメン屋さんのおじさんも、私の駄菓子屋の常連さんの一人で、大切な奥様を亡くされてから、ずっと一人でラーメン屋さんを切り盛りしている。
「こんばんは。まだ食事できますか?」
 閉店時間は十時なので、ラーメン屋さんのおじさんに聞いてみた。
「できますよ。それにしても、珍しいツーショットですね。デートしてきたんですか?」
 ラーメン屋さんのおじさんが、にこにこと微笑みながら聞いてきた。私も優太さんも、麦わら帽子とリュックサックを持っているので、恋人同士に思われたのかもしれない。
「いえいえ、別にデートというわけではないと思います」
 私は恥ずかしくなってしまい、お茶を濁すような答え方をしてしまった。私は優太さんと付き合っているわけでもないし、優太さんの彼女というわけでもない。だから、デートではないと思う。
「今日は、ハイキングに行ってきたんです」
 恥ずかしがっている私の気持ちを察してくれたのか、優太さんはデートとは言わないでいてくれた。
「ハイキングですか。いいですねえ。ご注文はお決まりですか?」
 ラーメン屋さんのおじさんも、私の気持ちを察してくれたのか、私と優太さんの関係に首を突っ込まないでいてくれた。
「僕は、チャーシューメンとチャーハンと餃子にします」
 優太さんもお腹がペコペコのようだ。
「私は、味噌ラーメンと餃子とレバニラ炒めにします」
 一度にこんなに注文したのは私は初めて。
「二人とも、お腹がペコペコのようですね。すぐに作りますので、少々お待ちを」
 優太さんと私の注文を聞いたラーメン屋さんのおじさんは、にっこりと微笑んでから、いつもの調子で料理を作り始めてくれた。
「菓絵さん、生ビールで乾杯しませんか?」
 優太さんはコーヒー牛乳しか飲まないと思っていたので、私はちょっと驚いた。
「あ、はい。乾杯しましょう」
 厨房で鍋を振るっているラーメン屋さんのおじさんに生ビールを注文して、ふわふわの真っ白い泡が山盛りになっている生ビールのジョッキをカチンと合わせて、優太さんと乾杯してみた。
「いただきます」
 よく冷えた生ビールが、ペコペコのお腹に染み渡ってくる。とにかく美味しい。最高に美味しい。こんなに美味しく感じられるのは、よく歩いたからだと思う。駄菓子屋を切り盛りするようになってからの私は、家飲みが多くなってしまい、飲み会にも行かなくなってしまったので、こうしてラーメン屋さんで生ビールを飲むのも、男性と一緒に食事をするのも、かなり久しぶりのこと。
「すごく美味しいですね」
 私はついつい調子に乗って、生ビールをジョッキで三杯も飲んでしまった。酔わないようにセーブしているのだろうか。優太さんは一杯しか飲んでいない。
「眠そうに見えますが、大丈夫ですか?」
 私はうとうとしていたようだ。優太さんに声を掛けられて目が覚めた。
「大丈夫です。食事中に眠ってしまって、どうもすみませんでした」
「いいんですよ。このコーヒー牛乳を飲んでください」
 私がうとうとしている間に買ってきてくれたのだろうか。優太さんがコーヒー牛乳の入った瓶を手渡してくれた。
「どうもありがとうございます」
 私は眠気を覚ますため、優太さんが買ってきてくれた冷たいコーヒー牛乳を一気に飲み干した。お酒を飲んだ後のコーヒー牛乳も最高に美味しい。
「どうもご馳走様でした。すごく美味しかったです」
 味噌ラーメンと餃子とレバニラ炒めに生ビールをジョッキで三杯とコーヒー牛乳。私のお腹はパンパンに膨れ上がっている。
「今日は、付き合ってもらったお礼として、僕がおごりますね」
「いえいえ、自分の分は自分で支払います」
「それでは僕の気が済みません。どうかおごらせてください」
 とても真剣な眼差しで、私に懇願してきた優太さん。こういうときは、素直に好意を受けるべきなのか。自分の分は自分で支払うべきなのか。私はどうしたらいいのかわからなくなってしまい、ラーメン屋さんのおじさんの顔を見た。笑顔で頷いてくれたので、優太さんの好意を素直に受けることにした。

 優太さんと一緒に歩いているうちに、だんだん酔いが醒めてきて、十一時過ぎに我が家に着いた。家を空けたのは、九時間くらいだったけど、今日はいろんなことを体験してきたので、三日間くらい家を空けていたような感覚だ。
「夜遅くまで付き合ってくれて、どうもありがとうございました」
 私を家まで送り届けてくれた優太さんは、麦わら帽子を脱いで、丁寧に頭を下げてお礼を言ってくれた。
「私こそ、本当にありがとうございました。今日はとっても楽しかったです」
 私も麦わら帽子を脱いで頭を下げて、夢のような時間を与えてくれた優太さんに感謝の気持ちを伝えてみた。
「楽しんでもらえて本当に良かったです」
 とびきりの笑顔で応えてくれた優太さん。本当に純粋な人なのだと改めて思った。
「それで、あの、菓絵さんにお願いしたいことがあるんですが、僕のお願いを聞いてもらえないでしょうか」
「あ、はい。何でも言ってみてください」
 急に真剣な表情になった優太さんの顔を見て、私はドキッとした。優太さんのお願いとは……いったい……。
「ちょっと恥ずかしいことなんですが、僕も菓絵さんのお絵描き教室に入ってもいいですか?」
「……お絵描き教室のことでしたか」
 正直なところ、私は別のことだと思っていた。でも、優太さんが私のお絵描き教室に入ってくれるのは嬉しい。
「いいですよ。優太さんも入ってください」
「やった! どうもありがとうです!」
 私の返事を聞いた優太さんは、右手で麦わら帽子をくるくると回しながら、とっても嬉しそうにしていた。少年のような心を持っている優太さんなら、子供たちの輪の中に自然と溶け込めると思う。
「それで、あの、もう一つお願いがあるんです。もしよかったら、来週の土曜日も、僕と一緒に秘密の丘に行ってもらえませんか」
 優太さんは麦わら帽子を回すのをやめて、真剣な表情で私にお願いしてきた。
「いいですよ。来週の土曜日も、よろしくお願いします」
 私はものすごく嬉しくなって、即答で返事をした。こうなることを待ち望んでいたからだと思う。
「やった! ものすごく嬉しいです! 来週の土曜日も! 今日と同じ時間に来ますね!」
 素直に嬉しさを爆発させている優太さん。
「はい。楽しみにしています。その前に、私のお絵描き教室は、金曜日の夜の七時半からですので、そのときにまたお会いしましょう」
 嬉しい気持ちを抑えて、冷静にお絵描き教室の日時を説明している私。
「そうでしたね。何か持っていく物はありますか?」
「絵の画材などは私が用意しますので、手ぶらで来てください」
「わかりました。それでは金曜日の夜にまた来ます。今日は本当にお疲れ様でした。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
 優太さんは嬉しさを抑え切れない様子で、スキップしながら家に向かっていった。





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