彼が残してくれた宝物
彼は、アルコールランプにマッチで火を点け、サイフォンの球状のフラスコに当てる。じきにアルコールランプで、温められたフラスコ内のお湯が沸騰してきた。
彼は、コーヒーの粉の入ったロートをゆっくりさし込む。すると湯が上方のロートに、ポコポコと上がり、彼はロート内をヘラで数回円を描くように攪拌し、少し時間を置いてもう一度ヘラで撹拌する。
コーヒーの粉と湯が混ざり合い、コーヒーの液が出来た。そして彼は、アルコールランプを外し、再度ヘラで軽く攪拌してヘラを置く。暫くするとコーヒー液が、フラスコ内へ再度吸い込まれていく。
サイフォンでコーヒーをいれながら過ごすゆっくりとした時間。
湧き上がる湯とコーヒーの粉が混ざり合い、そして静かに落ちてくるコーヒー液。部屋一面に漂うコーヒーの香り。
なんて贅沢な時間なのだろう。
樋口さんはロートを外し、コーヒーをカップに注ぎ、「どうぞ?」と、カップを私の前に置く。
私は、ゆっくりとそれを口元へ運び、香りを楽しみながら、コーヒーを味わう。
「美味しい。」
私の朝はいつも慌ただしく、食事もまともに取らない。こんなゆっくりした時間もいいなぁと思っていると、樋口さんの視線を感じる。
「なにか?」
「いやー、朝から色っぽいなぁと思ってね?」
そう言って、樋口さんは少し頭を傾げ、テーブル下の私の足に視線を落とした。
「スケベ!」
樋口さんには、足どころか全裸を見られているのだから、今更とも思うがちょっと睨んで見る。すると樋口さんは「アハハ」と笑い、コーヒーを飲んだ。
「朝は、いつもこんなに時間をかけるんですか?」
「ああ。 一歩、家を出ると、世間は忙し(せわし)ないだろ? 仕事という波が押し寄せて、どうしても時間に追われるからね? だから、せめて朝だけはゆっくり時を進めたいんだ。」