いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
その喫煙室には不思議な客が訪れる。
女性がキャッキャとやって来る研修は〝ハズレ〟。
男性が粛々と雪崩れ込む研修は〝アタリ〟。
これが、この4階フロアでまかり通っている隠語である。
「林檎先輩、今日の研修はハズレだよーん」
同部署に配属されたばかりの新人ちゃんが、堂々とタメ口で知らせてくれた。
「先輩って付けりゃいいと思ってる?あたしは良いけど、人によっては怒られるから注意しなね」と一応、先輩として釘を刺す事は忘れない。うん、忘れない。
4階フロアは、通路を挟んで右側一帯が研修エリア、そして左側一帯にあたし達の勤務するオフィスがある。普段はいくつか小部屋に区切って使う研修エリアが、たまに全部をブチ抜いて多人数の講座1つに使う事もあって、これがあたし達にとって絶好の〝狩り場〟となった。
一流企業のビジネスマンがあっちからホイホイやって来れば、そりゃ独身女性社員のテンションは自動的に上がる。休憩時間ともなれば、「コピーありますか」「トイレどこ」自然と訊ねられ、そこから出会いが、合コンが、彼氏が、その先に結婚が、そんな夢物語が無い訳でもないと、チャンスを求めて目が泳いだ。
2時間ごとにそんな輩が集中するその先の喫煙室は、まさにそんなチャンスを探るショーウインドウである。偶然通り掛かった振りでガラス越しに男性を値踏みするのが、この4階フロア、女性社員の目下の楽しみだった。
「ハズレ~。林檎先輩、残念!そんな無駄に召かしこんじゃってぇ」
「召かし込んでないよっ。つーか、先週もこれで来たよ?」
ボトムは白いベーシックなフレアスカートで軽さを、トップスはエアリーな七分袖ブラウスで女性らしい柔らかさを演出している。上半身のアクアブルーが、5月の強い日差しの中で目に優しい。156センチという微妙に低い身長を底上げしてくれるパンプスは必須アイテムだ。髪はやっと肩まで届いたけれど、この中途半端な長さと枕のせいで妙なクセが付いて、風が通る度にくるっとうねる。お陰でちょっとぐらいの寝グセなら誤魔化す事が出来た。左右アシンメトリーなニュアンスがイケてるでしょ?と、周囲にはそういう事にしている。今日はしてないけど、先週はアクセサリーにも凝ってたし、美容院にも行った後だった。ネイルだってフェイシャルだって。つまり先週は〝アタリ〟だったのだ。
今日は〝ハズレ〟、明日は〝アタリ〟、来週は?と、のーんびり、するだけ無駄な期待を繋げて今に至る。彼氏居ない歴28年、ただいま記録更新中だ。
ところが最近……その喫煙室には不思議な客が訪れる。
その、1人現れる謎の男性に、みんなの注目が集まっていた。
それは決まって研修の無い日の事、閑散とした4階フロアに何処からともなく現れて、1人ぽつんと煙草をくゆらせている。その男性は、少なくともこのフロアでは見掛けない顔だった。
オフィスの端には給湯室、その向こうに喫煙室、これはどのフロアにもある。もしここの社員であれば、何でわざわざ別のフロアまで来て煙草を吸うのか。
「上司からイジメられてるとか。林檎さん、出番じゃないですか」
「いやいやいや。そういう感じじゃないでしょ。あれは」
まず、その長身が圧倒的な存在感を醸し出していた。男性社員の目線の高さに設定した〝喫煙マナーを守ろう〟ポスターよりも、彼の頭はかなり上の位置にある。スレンダーな全身をダークなスーツに包み、髪の毛は真っ黒、それはサイドから自然な流れに任せてスタイリングが施されていた。そのクールな目元の印象に拍車を掛けるが如く、メタルフレームのメガネが鎮座している。休憩中も隙を見せない……全体的にそんなニュアンスを纏っていた。
彼が気になり始めた同僚女子は給湯室に入るついでに、その先に目線をちらっと飛ばしてみる。〝メガネ王子〟とあだ名が囁かれ始めた矢先、「ちょっと眼力鋭くない?」と誰かが言い始めて、そこからあだ名は〝元ヤンくん〟に変わった。
近頃はそこを通り掛かる社員に敏感に反応して、まるで目の敵にでもするようにガンを飛ばしてくるので、あだ名は〝極道様〟に変わりつつある。
彼はここの社員なのか。別フロアで研修中のお客様なのか。どうしてわざわざ4階にやって来るのか。ここに誰かお目当ての女の子でも居るのか。
「もしかして、あたしかなぁ」とか言いながら、胸(だけ)に自信のある後輩ちゃんは、シュッと香水を振り撒いた。
「ちょっと、今コーヒーに掛かったじゃん。謝れ~」
すんませーん、と後輩ちゃんはマグカップに向かって謝る。「舐めてんのか?」と凄身を利かせたら、「林檎先輩、怖いぃ。ウケるぅ」と、やっぱ舐めてるな。
「あの人さ、誰かのストーカーだったりして。林檎先輩っ」
「あたし?追い掛けてくれんの?あのイケメンが?やりっ」
そろそろあの人物を特定したい所だと、このフロア中の女性社員が躍起になる中、あたしもやる気満々でその躍起のど真ん中にいた。メンチ上等!ガラス越し、覚悟で覗きこんだそいつの胸元のカードには〝上杉東彦〟とある。
「何て読むの、これ」メモにさらさら書いて、後輩に見せたら、
「この名前には見覚えあるようなぁ」
「確かに、そう言われたら、あのIDカードはうちのだった」
研修参加者の名前カードではない。
そこで給湯室からデスクにトンボ返りして、早速、人物照会ファイルを開いた。
システム課のこしらえた公式HPは、5月にリニューアルされている。コンテンツにそれほど変わりはないが、散りばめられたアイコンが鮮やかで、これはこれで景気の良い会社だと思わせるのに効果を上げているかもしれない。
〝株式会社パーソナル・ユース〟
事業内容は、研修業務全般。企業内研修から公開講座まで、自治体から一般企業まで、そして国内から海外まで、お客様のニーズに応じた研修事業を通じて人材を育てるお手伝いを致します。
最高の笑顔を貼り付けて、これが、そらで言えるようになるまで3年掛かった。
ここ本社は有数のオフィス街にあり、周囲も高いオフィスビルに囲まれている。つまりお客さんはこの界隈にごろごろ溢れているのだ。その甲斐あってか、この5年で当社の社員は倍になり、取引先の種類ごとに営業部も企画部も部署をどんどん増やしている。見覚えの無い社員が居るのも当たり前になってきたなぁ。
パスワードを入力して、そこから社員専用サイトに入った。
あたしの周りに集まった女性社員の目が、画面に釘付けになる。
「「「「「うっわぁー……」」」」」
ウエスギハルヒコ、と読む事が判明した。
いやそんな事より何より、あれやこれやと上杉東彦のキラキラしい経歴が画面上に踊っている。一流大学卒業を皮切りに、経営コンサルタント会社、IT関連会社、地方の議員秘書を経て我が社に至る。TOEIC、FP、教員免許と運転免許はご愛嬌だけど、その下に〝インストラクター国際資格CTTを取得〟とあって、これは何かな?とググったら〝インストラクター能力を証明する認定資格。教育を提供する全ての場において適用可能〟とあった。微妙に分からんちーん。
「林檎先輩、この人、何か凄そう!」
「アタリ!大アタリですよこれ!」
周囲は小躍りした。いえーい!とマグカップで乾杯して、あたしもそのノリに便乗する。5月病真っ只中という鬱陶しいこの時期に、ドカンと大きな話題を提供してくれた〝上杉東彦〟には敬意を表したい。
所属は1つ上の5階に出来たばかりの第5営業部だった。ここは主に自治体相手の研修を担当する部署となっているけれど……官庁、公務員対象の部署は第2にある。1つでは足りなくてまた1つ出来たと言う事なのか。ムズい。これでは新人は覚えきれない。そのうち業務体系に抜本的な変化が訪れる事を祈ろう。
その頃、あたしはまだこの会社にいるだろうか。彼氏居ない歴28年、独身をこじらせたまま。こじれているかどうかは分からないが、この上杉東彦も独身だった。照会ファイルではない。さっき覗いた喫煙室に於いて、煙草を取る左手の薬指に何も無い事を真っ先に確認したから間違いない。
ついこないだ4月から横浜の営業所より異動してきた人らしいが、35歳で部長職とは、これはもう大抜擢である。フロアが違えば、それほど顔を合わせる事は無いので、それが残念だ。この〝上杉東彦〟の第5営業部から、仕事が舞い降りて来ない限りは……。
「林檎先輩、この写真、修正入れてませんよね」
「とかって経歴に修正入ってない?こんな人、本当に居る?都市伝説みたいな」
「大丈夫。信用できますって、今年のシステム課は」
それを入ったばかりのペーペーに言われるとは思わなかった。
「林檎先輩、行けっ」と背中を押してくれるけど。
「うーん」あたしは思わず唸る。「するだけ無駄の期待じゃないかなぁ」
この男はよっぽどキレッキレで有能。つまり女が居ない訳がない。そうなると、このイケメンは肴という囲いに留めた方が……久しぶりに、ちくっと行くか?
イケメンを凌ぐ破壊力で、別の期待が盛り上がった。想像しただけで鼻先を甘い香りが、口元には官能的な味わいが甦る。冷蔵庫で大切に寝かせた大吟醸が家であたしを待っているのだ。くうぅぅぅぅーっ。
さっさと今日の分を終わらせて、夕方のデパ地下で半額のお惣菜を買お♪
「さ、仕事に戻ろ」
敢えて声に出す事で、気持ちの切り替えを促した。後輩たちも、ゆるりと仕事に戻っていく。デスクに積まれた研修資料を開いて、新しい案件に目を通した。
林檎まゆ。
28歳。この会社に入社して6年。最初は人事部の教育課で2年、そこから研修企画部1課に異動、クリエイターとなって4年が経つ。ここは営業から次々と送られてくる研修企画書を元に、研修資料という形にして作成する部署である。営業からダメ出しを受けながら修正を重ねて資料を完成させたのち、その研修の準備からその後の後始末、フォローに至るまで、全般関わる事が要求されていた。
ぶっちゃけ、研修参加者と営業を満足させるための準備と後片付けが、あたし達の仕事である。いつも思うけど、というか1度くらい声を大にして言いたい。
〝クリエイター〟という名の肩書きに名前負けしちゃってない?
実際言ったら後輩にはウケた。同輩以上には、微妙な笑みでもって無視される。
こちらから研修内容をプロデュースして、これを売り込め!と営業に殴り込んだという前向きなクリエイターも以前は居たようだけど、そんな余裕、今の部署には欠片も無かった。それなのに、「林檎さんは暇だよね?」と言われて異動後も、教育課の元同僚から新人研修のお手伝いに駆り出される事もありにけり。
先月4月から一カ月掛かった新人研修が、ようやく先週終わりを迎えた。やっと肩の荷を下ろす……筈だった。ところが。
「林檎さぁぁぁん!」
今日も、その弊害が駆けこんでくる。
男性が粛々と雪崩れ込む研修は〝アタリ〟。
これが、この4階フロアでまかり通っている隠語である。
「林檎先輩、今日の研修はハズレだよーん」
同部署に配属されたばかりの新人ちゃんが、堂々とタメ口で知らせてくれた。
「先輩って付けりゃいいと思ってる?あたしは良いけど、人によっては怒られるから注意しなね」と一応、先輩として釘を刺す事は忘れない。うん、忘れない。
4階フロアは、通路を挟んで右側一帯が研修エリア、そして左側一帯にあたし達の勤務するオフィスがある。普段はいくつか小部屋に区切って使う研修エリアが、たまに全部をブチ抜いて多人数の講座1つに使う事もあって、これがあたし達にとって絶好の〝狩り場〟となった。
一流企業のビジネスマンがあっちからホイホイやって来れば、そりゃ独身女性社員のテンションは自動的に上がる。休憩時間ともなれば、「コピーありますか」「トイレどこ」自然と訊ねられ、そこから出会いが、合コンが、彼氏が、その先に結婚が、そんな夢物語が無い訳でもないと、チャンスを求めて目が泳いだ。
2時間ごとにそんな輩が集中するその先の喫煙室は、まさにそんなチャンスを探るショーウインドウである。偶然通り掛かった振りでガラス越しに男性を値踏みするのが、この4階フロア、女性社員の目下の楽しみだった。
「ハズレ~。林檎先輩、残念!そんな無駄に召かしこんじゃってぇ」
「召かし込んでないよっ。つーか、先週もこれで来たよ?」
ボトムは白いベーシックなフレアスカートで軽さを、トップスはエアリーな七分袖ブラウスで女性らしい柔らかさを演出している。上半身のアクアブルーが、5月の強い日差しの中で目に優しい。156センチという微妙に低い身長を底上げしてくれるパンプスは必須アイテムだ。髪はやっと肩まで届いたけれど、この中途半端な長さと枕のせいで妙なクセが付いて、風が通る度にくるっとうねる。お陰でちょっとぐらいの寝グセなら誤魔化す事が出来た。左右アシンメトリーなニュアンスがイケてるでしょ?と、周囲にはそういう事にしている。今日はしてないけど、先週はアクセサリーにも凝ってたし、美容院にも行った後だった。ネイルだってフェイシャルだって。つまり先週は〝アタリ〟だったのだ。
今日は〝ハズレ〟、明日は〝アタリ〟、来週は?と、のーんびり、するだけ無駄な期待を繋げて今に至る。彼氏居ない歴28年、ただいま記録更新中だ。
ところが最近……その喫煙室には不思議な客が訪れる。
その、1人現れる謎の男性に、みんなの注目が集まっていた。
それは決まって研修の無い日の事、閑散とした4階フロアに何処からともなく現れて、1人ぽつんと煙草をくゆらせている。その男性は、少なくともこのフロアでは見掛けない顔だった。
オフィスの端には給湯室、その向こうに喫煙室、これはどのフロアにもある。もしここの社員であれば、何でわざわざ別のフロアまで来て煙草を吸うのか。
「上司からイジメられてるとか。林檎さん、出番じゃないですか」
「いやいやいや。そういう感じじゃないでしょ。あれは」
まず、その長身が圧倒的な存在感を醸し出していた。男性社員の目線の高さに設定した〝喫煙マナーを守ろう〟ポスターよりも、彼の頭はかなり上の位置にある。スレンダーな全身をダークなスーツに包み、髪の毛は真っ黒、それはサイドから自然な流れに任せてスタイリングが施されていた。そのクールな目元の印象に拍車を掛けるが如く、メタルフレームのメガネが鎮座している。休憩中も隙を見せない……全体的にそんなニュアンスを纏っていた。
彼が気になり始めた同僚女子は給湯室に入るついでに、その先に目線をちらっと飛ばしてみる。〝メガネ王子〟とあだ名が囁かれ始めた矢先、「ちょっと眼力鋭くない?」と誰かが言い始めて、そこからあだ名は〝元ヤンくん〟に変わった。
近頃はそこを通り掛かる社員に敏感に反応して、まるで目の敵にでもするようにガンを飛ばしてくるので、あだ名は〝極道様〟に変わりつつある。
彼はここの社員なのか。別フロアで研修中のお客様なのか。どうしてわざわざ4階にやって来るのか。ここに誰かお目当ての女の子でも居るのか。
「もしかして、あたしかなぁ」とか言いながら、胸(だけ)に自信のある後輩ちゃんは、シュッと香水を振り撒いた。
「ちょっと、今コーヒーに掛かったじゃん。謝れ~」
すんませーん、と後輩ちゃんはマグカップに向かって謝る。「舐めてんのか?」と凄身を利かせたら、「林檎先輩、怖いぃ。ウケるぅ」と、やっぱ舐めてるな。
「あの人さ、誰かのストーカーだったりして。林檎先輩っ」
「あたし?追い掛けてくれんの?あのイケメンが?やりっ」
そろそろあの人物を特定したい所だと、このフロア中の女性社員が躍起になる中、あたしもやる気満々でその躍起のど真ん中にいた。メンチ上等!ガラス越し、覚悟で覗きこんだそいつの胸元のカードには〝上杉東彦〟とある。
「何て読むの、これ」メモにさらさら書いて、後輩に見せたら、
「この名前には見覚えあるようなぁ」
「確かに、そう言われたら、あのIDカードはうちのだった」
研修参加者の名前カードではない。
そこで給湯室からデスクにトンボ返りして、早速、人物照会ファイルを開いた。
システム課のこしらえた公式HPは、5月にリニューアルされている。コンテンツにそれほど変わりはないが、散りばめられたアイコンが鮮やかで、これはこれで景気の良い会社だと思わせるのに効果を上げているかもしれない。
〝株式会社パーソナル・ユース〟
事業内容は、研修業務全般。企業内研修から公開講座まで、自治体から一般企業まで、そして国内から海外まで、お客様のニーズに応じた研修事業を通じて人材を育てるお手伝いを致します。
最高の笑顔を貼り付けて、これが、そらで言えるようになるまで3年掛かった。
ここ本社は有数のオフィス街にあり、周囲も高いオフィスビルに囲まれている。つまりお客さんはこの界隈にごろごろ溢れているのだ。その甲斐あってか、この5年で当社の社員は倍になり、取引先の種類ごとに営業部も企画部も部署をどんどん増やしている。見覚えの無い社員が居るのも当たり前になってきたなぁ。
パスワードを入力して、そこから社員専用サイトに入った。
あたしの周りに集まった女性社員の目が、画面に釘付けになる。
「「「「「うっわぁー……」」」」」
ウエスギハルヒコ、と読む事が判明した。
いやそんな事より何より、あれやこれやと上杉東彦のキラキラしい経歴が画面上に踊っている。一流大学卒業を皮切りに、経営コンサルタント会社、IT関連会社、地方の議員秘書を経て我が社に至る。TOEIC、FP、教員免許と運転免許はご愛嬌だけど、その下に〝インストラクター国際資格CTTを取得〟とあって、これは何かな?とググったら〝インストラクター能力を証明する認定資格。教育を提供する全ての場において適用可能〟とあった。微妙に分からんちーん。
「林檎先輩、この人、何か凄そう!」
「アタリ!大アタリですよこれ!」
周囲は小躍りした。いえーい!とマグカップで乾杯して、あたしもそのノリに便乗する。5月病真っ只中という鬱陶しいこの時期に、ドカンと大きな話題を提供してくれた〝上杉東彦〟には敬意を表したい。
所属は1つ上の5階に出来たばかりの第5営業部だった。ここは主に自治体相手の研修を担当する部署となっているけれど……官庁、公務員対象の部署は第2にある。1つでは足りなくてまた1つ出来たと言う事なのか。ムズい。これでは新人は覚えきれない。そのうち業務体系に抜本的な変化が訪れる事を祈ろう。
その頃、あたしはまだこの会社にいるだろうか。彼氏居ない歴28年、独身をこじらせたまま。こじれているかどうかは分からないが、この上杉東彦も独身だった。照会ファイルではない。さっき覗いた喫煙室に於いて、煙草を取る左手の薬指に何も無い事を真っ先に確認したから間違いない。
ついこないだ4月から横浜の営業所より異動してきた人らしいが、35歳で部長職とは、これはもう大抜擢である。フロアが違えば、それほど顔を合わせる事は無いので、それが残念だ。この〝上杉東彦〟の第5営業部から、仕事が舞い降りて来ない限りは……。
「林檎先輩、この写真、修正入れてませんよね」
「とかって経歴に修正入ってない?こんな人、本当に居る?都市伝説みたいな」
「大丈夫。信用できますって、今年のシステム課は」
それを入ったばかりのペーペーに言われるとは思わなかった。
「林檎先輩、行けっ」と背中を押してくれるけど。
「うーん」あたしは思わず唸る。「するだけ無駄の期待じゃないかなぁ」
この男はよっぽどキレッキレで有能。つまり女が居ない訳がない。そうなると、このイケメンは肴という囲いに留めた方が……久しぶりに、ちくっと行くか?
イケメンを凌ぐ破壊力で、別の期待が盛り上がった。想像しただけで鼻先を甘い香りが、口元には官能的な味わいが甦る。冷蔵庫で大切に寝かせた大吟醸が家であたしを待っているのだ。くうぅぅぅぅーっ。
さっさと今日の分を終わらせて、夕方のデパ地下で半額のお惣菜を買お♪
「さ、仕事に戻ろ」
敢えて声に出す事で、気持ちの切り替えを促した。後輩たちも、ゆるりと仕事に戻っていく。デスクに積まれた研修資料を開いて、新しい案件に目を通した。
林檎まゆ。
28歳。この会社に入社して6年。最初は人事部の教育課で2年、そこから研修企画部1課に異動、クリエイターとなって4年が経つ。ここは営業から次々と送られてくる研修企画書を元に、研修資料という形にして作成する部署である。営業からダメ出しを受けながら修正を重ねて資料を完成させたのち、その研修の準備からその後の後始末、フォローに至るまで、全般関わる事が要求されていた。
ぶっちゃけ、研修参加者と営業を満足させるための準備と後片付けが、あたし達の仕事である。いつも思うけど、というか1度くらい声を大にして言いたい。
〝クリエイター〟という名の肩書きに名前負けしちゃってない?
実際言ったら後輩にはウケた。同輩以上には、微妙な笑みでもって無視される。
こちらから研修内容をプロデュースして、これを売り込め!と営業に殴り込んだという前向きなクリエイターも以前は居たようだけど、そんな余裕、今の部署には欠片も無かった。それなのに、「林檎さんは暇だよね?」と言われて異動後も、教育課の元同僚から新人研修のお手伝いに駆り出される事もありにけり。
先月4月から一カ月掛かった新人研修が、ようやく先週終わりを迎えた。やっと肩の荷を下ろす……筈だった。ところが。
「林檎さぁぁぁん!」
今日も、その弊害が駆けこんでくる。
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