いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
あたしは悲鳴を上げてその場に崩れた。というか腰が抜けた。
ヘビの青緑のウロコはギラギラと光を放ち、微動だにせず、今も真っ直ぐこっちを睨み付けている。思わずバッグを放り投げたせいで、そこら中に小物が散らばった。だからと言ってそれを拾い集めて回れない。ちょっとでも動いたら飛び掛かってくるんじゃないか。ヘビから目が離せなくなった。
ヘビを放し飼い、こんなの聞いてない!法律違反でしょ、これ!
そいつと目線を繋げたまま、あたしは腰から後ずさりした。2メートル程下がった所で何か硬いものに付き当たって、背中が行き止まる。
見上げると、
「そのヘビは空き巣対策だ」
上杉部長が居た。白いTシャツ、下は濃紺のスウェット、剥き出しの足首がやけに綺麗に見える。あたしと目が合って、いきなり吹き出したと思ったら、
「すげー頭だな。それ何だっけ?ほら、頭にヘビ付いてる女の妖怪」
「それメデューサ!」
どんだけヘビ好き!?
あたしは困惑したまま、そこからまたいつかみたいに腕を取られて、軽々と助け起こされたけど。小学生から一気に高校生部活男子ぐらいには頼もしく見えましたけどっ。そんな100%リラックスの笑顔でもって来られたら、こっちはなんだか急に息苦しくなってくる。
「岩槻が出張行ったときの土産で貰った。ゴム製だけどリアルだろ」
「ゴムって……」
造り物、か。あたしは泥棒が気の毒になった。
「全然、期待してなかったけど、意外と効果アリだな」
彼はそのヘビを、ひょいと持ち上げた。ゴム製と言われても……あたしは彼の言う事を信じ切れず、人指し指、えい!と挑発を繰り返して、何度も何度も確かめた。彼が絶妙な操作でグイとヘビを動かすその度に、あたしは「うあっ」と飛び退く。それを見て、彼は何度も吹き出したと思ったら、そこから収まらないまま、あははははっ!「こんなに遊べると思わなかった」笑い続ける。
「それはヘビですかっ。それともあたしですかっ」
そうやって女子をイジり続ける姿、無邪気な笑顔も、やっぱり小学生みたい。
待て。
笑顔に撃ち抜かれるな。騙されてはいけない。こいつは小学生ではない。
「あの」
あたしは上杉東彦という1男性と対峙した。この問題には上司も部下も無い。
「何ですかこれは。この状況は」
そこでまたヘビの鎌首が無邪気に迫って来たので、「ちょっと。真面目な話なんですけどっ」1度ぶるっと震えてから、ぱちんとヘビを弾いた。
「どうしてあたしはここに居るんですか。これはセクハラどころか犯罪ですからね。あたし泣き寝入りしませんからね。慰謝料たっぷり請求しますからね。あなたは解雇です。社会から制裁を受けてください」
また呪いか、と彼は呟いて、
「言っとくけど、俺が誘った訳じゃないからな。おまえがホイホイ付いてきて」
「嘘だっ」
「嘘じゃない。それに何もやってない」
これはちょっと騙されたい気もしてくる。恐る恐る、「本当に?」と訊いて、「うん」と聞こえて、あたしは思わず壁にもたれた。そこから再び彼を振り返り、
「本当に?」
「うん」
彼の目は笑っていない。嘘を付いているようには見えなかった。あたしは1度目を閉じて、「よかったぁ」神よ……28年の生涯で1番長い溜め息をつく。
「だーから、ヤラしい事考えるなって、いつも言ってんだろ」
思わずダイニングテーブルに落ち着いたら、そこからいつもの、上杉部長が甦ってきた。「おまえ服着てるじゃないか。頭おかしいのか」
下半身は、まっぱです……それを言ったら逆セクハラになる。部長は知らない、と見た。きっと、どこかで脱ぎ捨てている。きょろきょろと、あたしは周囲を窺っていた。スマホで日付と時間を確認。今日は土曜日。明日もお休み。美穂からメールが来ていた。『どう?上手くいったら教えてね』何の事か分かんないけど、言わない。言えない。絶対に。
とん。
目の前、そこに桜色のマグカップが置かれた。
「飲めよ」
深煎りコーヒーの好い香りがする。そこから、まるで夢のような妄想が自然と広がった。彼氏とか出来たら、いつかこんな自然な朝を迎えて、今日の予定とか話しながら一緒にご飯とか食べて……妄想が果てしなく膨らんで、ぼうっとしていたら、それを躊躇と誤解したのか、「毒なんか入ってないって」そこでミルクを渡された指同士がぶつかった。それだけの事なのに、やけに心臓が暴れる。
「はいっ、いただきますっ」
彼はまた吹き出した。「メデューサ、おまえは一体、いつも何と闘ってるんだ」
そういう上杉部長は妙に砕けてる。目覚めてから1度も、あの眼力を見ていない。こういう穏やかな表情は会社に居る時とは全然違うと思った。オンとオフを上手く使い分けているという事かもしれないな。
あたしも切り替えなきゃ。しっかりしなきゃ。今より少しは成長しなきゃ……そこでコーヒーを口に含んだら、そのひと口で心がほぐれた。御苦労さま、と言われてイケメンに頭を撫でられるみたいに。そんな何かのCMみたいな、この程度の事で込み上げて来るなんて、何を弱気になっているの?あたしは。
「うっ……」
「やめろよ。汚すなよ。吐くなら向こうだ」
「う、美味いです」
コーヒーを吹き出して、そこら中を汚したのは上杉部長だった。「すみません。すみません」と、何故かあたしが謝って、2人一緒にそこら中を拭いて回る。
動き回りながら、密かにアレを探して忙しく立ち回った。まだ見ていない部屋はあそことあそこ。ヘビが居座る背後にも1つ部屋がある。あれは手強いな。
「ところで宇佐美って、どうなってる?」
ひと息ついた所で、普通に仕事の話が始まった。上杉部長がメガネを掛けて煙草を始めたら、ここは会社のような気がしてくる。そういう事にしてもいいか。穏やかなひと時が、まるで終わりを告げるように感じて、ちょっとは残念だけど。
「今は基本をどうにか。明日からパワポに入ろうかと思っています。もともとそういうのは得意みたいで、1度覚えたら早いんじゃないかと」
そうやって進捗具合を答えながらも、ずっと下半身が落ち着かない。目の前には男の人が居るというのに、すーすーしたまま普通の話を続けるというのも可笑しな話だ。これが世間で言うところの羞恥プレイなんだな。一体どこに置いたんだろう。コーヒーを味わいながら、ずっとあちこちキョロキョロしていると、「何だ、その挙動不審は」と、ここで初めて突っ込まれた。いつもの目ヂカラ降臨。
ぱんつを探しています……口が裂けても言えない。
「何か、綺麗なお部屋ですね。自分で掃除とかされるんですか。彼女かな」
「そういうのは居ない」
一瞬、妙な間があったように感じたけど。
「は、はははぁ、嘘だぁ」
こっちは好意的に笑ったつもりが、上杉部長はそこから妙にイラついて、乱暴に煙草を揉み消した。あたし地雷踏んだ?
1度時計を見て、「もういいだろ。帰れ」
はっきり追い出されている。この週末、誰かと約束でもあるのか。セフレか。キャバ嬢か。いやもう簡単に彼女でしょう。桜色のマグカップは、部長の趣味とは到底思えない。これだけ整えられた綺麗な部屋、美味しいコーヒーがいつでも飲めるという環境が、落ち着いた関係を証明している。誰も入り込む余地は無い。
彼氏居ないが長過ぎて、上杉部長を相手に妄想が弾んでしまった。思いがけず無邪気な素顔を覗く事が出来てハイになってる……あたしはマグカップに残ったコーヒーを一気飲み。こんな事に意地になってどうするとは思うけど、気持ちの切り替えに、あたしは椅子から勢いよく立ちあがった。途端に、スーッと下半身に風が通る。退場の意志を固めたはいいけれど……ヤバいんじゃないか。
ぱんつが見つかったら、こっちが恥ずかしいだけでは済まない。恋人同士の間で事件になってしまう。
「あ、あの」
「早く行け」
リビングを追い出されて通路に立たされた。どうしようかと考えながら、別室前のヘビとしばらく見詰め合う。「あのっ」「何だ」「あ、あの」「だから何だ」
不毛なやりとりを繰り返し、玄関に辿りついた所であたしは意を決した。
「上杉部長、ごめんなさい。先に謝っておきます。何かあったらお詫びに伺いますから、いつでも言って下さい。本当にごめんなさい」
「おまえは一体何を謝ってる」
「それはもう色々と……あの、女の物っていうか、そういうのが残ってて。もし誰かが見てしまったらと思うと」
メガネの奥で、彼の瞳がきゅっと細くなった。「そうか」と目を逸らす。
「今日の事は黙っておいてやる。おまえもここで見た事は忘れろ」
……何を?
あたしが見た物。ヘビ。恐竜フィギュア。10円ハゲ。無邪気な素顔。
これだけ真剣に言うのだから、そんな物ではない。強いて言うなら、女の影だ。
知られたくない存在。訳あって隠してる。それだけ大切にしている。
午前10時。
外に出て初めて、ここが横浜だと言う事が分かった。
ヘビの青緑のウロコはギラギラと光を放ち、微動だにせず、今も真っ直ぐこっちを睨み付けている。思わずバッグを放り投げたせいで、そこら中に小物が散らばった。だからと言ってそれを拾い集めて回れない。ちょっとでも動いたら飛び掛かってくるんじゃないか。ヘビから目が離せなくなった。
ヘビを放し飼い、こんなの聞いてない!法律違反でしょ、これ!
そいつと目線を繋げたまま、あたしは腰から後ずさりした。2メートル程下がった所で何か硬いものに付き当たって、背中が行き止まる。
見上げると、
「そのヘビは空き巣対策だ」
上杉部長が居た。白いTシャツ、下は濃紺のスウェット、剥き出しの足首がやけに綺麗に見える。あたしと目が合って、いきなり吹き出したと思ったら、
「すげー頭だな。それ何だっけ?ほら、頭にヘビ付いてる女の妖怪」
「それメデューサ!」
どんだけヘビ好き!?
あたしは困惑したまま、そこからまたいつかみたいに腕を取られて、軽々と助け起こされたけど。小学生から一気に高校生部活男子ぐらいには頼もしく見えましたけどっ。そんな100%リラックスの笑顔でもって来られたら、こっちはなんだか急に息苦しくなってくる。
「岩槻が出張行ったときの土産で貰った。ゴム製だけどリアルだろ」
「ゴムって……」
造り物、か。あたしは泥棒が気の毒になった。
「全然、期待してなかったけど、意外と効果アリだな」
彼はそのヘビを、ひょいと持ち上げた。ゴム製と言われても……あたしは彼の言う事を信じ切れず、人指し指、えい!と挑発を繰り返して、何度も何度も確かめた。彼が絶妙な操作でグイとヘビを動かすその度に、あたしは「うあっ」と飛び退く。それを見て、彼は何度も吹き出したと思ったら、そこから収まらないまま、あははははっ!「こんなに遊べると思わなかった」笑い続ける。
「それはヘビですかっ。それともあたしですかっ」
そうやって女子をイジり続ける姿、無邪気な笑顔も、やっぱり小学生みたい。
待て。
笑顔に撃ち抜かれるな。騙されてはいけない。こいつは小学生ではない。
「あの」
あたしは上杉東彦という1男性と対峙した。この問題には上司も部下も無い。
「何ですかこれは。この状況は」
そこでまたヘビの鎌首が無邪気に迫って来たので、「ちょっと。真面目な話なんですけどっ」1度ぶるっと震えてから、ぱちんとヘビを弾いた。
「どうしてあたしはここに居るんですか。これはセクハラどころか犯罪ですからね。あたし泣き寝入りしませんからね。慰謝料たっぷり請求しますからね。あなたは解雇です。社会から制裁を受けてください」
また呪いか、と彼は呟いて、
「言っとくけど、俺が誘った訳じゃないからな。おまえがホイホイ付いてきて」
「嘘だっ」
「嘘じゃない。それに何もやってない」
これはちょっと騙されたい気もしてくる。恐る恐る、「本当に?」と訊いて、「うん」と聞こえて、あたしは思わず壁にもたれた。そこから再び彼を振り返り、
「本当に?」
「うん」
彼の目は笑っていない。嘘を付いているようには見えなかった。あたしは1度目を閉じて、「よかったぁ」神よ……28年の生涯で1番長い溜め息をつく。
「だーから、ヤラしい事考えるなって、いつも言ってんだろ」
思わずダイニングテーブルに落ち着いたら、そこからいつもの、上杉部長が甦ってきた。「おまえ服着てるじゃないか。頭おかしいのか」
下半身は、まっぱです……それを言ったら逆セクハラになる。部長は知らない、と見た。きっと、どこかで脱ぎ捨てている。きょろきょろと、あたしは周囲を窺っていた。スマホで日付と時間を確認。今日は土曜日。明日もお休み。美穂からメールが来ていた。『どう?上手くいったら教えてね』何の事か分かんないけど、言わない。言えない。絶対に。
とん。
目の前、そこに桜色のマグカップが置かれた。
「飲めよ」
深煎りコーヒーの好い香りがする。そこから、まるで夢のような妄想が自然と広がった。彼氏とか出来たら、いつかこんな自然な朝を迎えて、今日の予定とか話しながら一緒にご飯とか食べて……妄想が果てしなく膨らんで、ぼうっとしていたら、それを躊躇と誤解したのか、「毒なんか入ってないって」そこでミルクを渡された指同士がぶつかった。それだけの事なのに、やけに心臓が暴れる。
「はいっ、いただきますっ」
彼はまた吹き出した。「メデューサ、おまえは一体、いつも何と闘ってるんだ」
そういう上杉部長は妙に砕けてる。目覚めてから1度も、あの眼力を見ていない。こういう穏やかな表情は会社に居る時とは全然違うと思った。オンとオフを上手く使い分けているという事かもしれないな。
あたしも切り替えなきゃ。しっかりしなきゃ。今より少しは成長しなきゃ……そこでコーヒーを口に含んだら、そのひと口で心がほぐれた。御苦労さま、と言われてイケメンに頭を撫でられるみたいに。そんな何かのCMみたいな、この程度の事で込み上げて来るなんて、何を弱気になっているの?あたしは。
「うっ……」
「やめろよ。汚すなよ。吐くなら向こうだ」
「う、美味いです」
コーヒーを吹き出して、そこら中を汚したのは上杉部長だった。「すみません。すみません」と、何故かあたしが謝って、2人一緒にそこら中を拭いて回る。
動き回りながら、密かにアレを探して忙しく立ち回った。まだ見ていない部屋はあそことあそこ。ヘビが居座る背後にも1つ部屋がある。あれは手強いな。
「ところで宇佐美って、どうなってる?」
ひと息ついた所で、普通に仕事の話が始まった。上杉部長がメガネを掛けて煙草を始めたら、ここは会社のような気がしてくる。そういう事にしてもいいか。穏やかなひと時が、まるで終わりを告げるように感じて、ちょっとは残念だけど。
「今は基本をどうにか。明日からパワポに入ろうかと思っています。もともとそういうのは得意みたいで、1度覚えたら早いんじゃないかと」
そうやって進捗具合を答えながらも、ずっと下半身が落ち着かない。目の前には男の人が居るというのに、すーすーしたまま普通の話を続けるというのも可笑しな話だ。これが世間で言うところの羞恥プレイなんだな。一体どこに置いたんだろう。コーヒーを味わいながら、ずっとあちこちキョロキョロしていると、「何だ、その挙動不審は」と、ここで初めて突っ込まれた。いつもの目ヂカラ降臨。
ぱんつを探しています……口が裂けても言えない。
「何か、綺麗なお部屋ですね。自分で掃除とかされるんですか。彼女かな」
「そういうのは居ない」
一瞬、妙な間があったように感じたけど。
「は、はははぁ、嘘だぁ」
こっちは好意的に笑ったつもりが、上杉部長はそこから妙にイラついて、乱暴に煙草を揉み消した。あたし地雷踏んだ?
1度時計を見て、「もういいだろ。帰れ」
はっきり追い出されている。この週末、誰かと約束でもあるのか。セフレか。キャバ嬢か。いやもう簡単に彼女でしょう。桜色のマグカップは、部長の趣味とは到底思えない。これだけ整えられた綺麗な部屋、美味しいコーヒーがいつでも飲めるという環境が、落ち着いた関係を証明している。誰も入り込む余地は無い。
彼氏居ないが長過ぎて、上杉部長を相手に妄想が弾んでしまった。思いがけず無邪気な素顔を覗く事が出来てハイになってる……あたしはマグカップに残ったコーヒーを一気飲み。こんな事に意地になってどうするとは思うけど、気持ちの切り替えに、あたしは椅子から勢いよく立ちあがった。途端に、スーッと下半身に風が通る。退場の意志を固めたはいいけれど……ヤバいんじゃないか。
ぱんつが見つかったら、こっちが恥ずかしいだけでは済まない。恋人同士の間で事件になってしまう。
「あ、あの」
「早く行け」
リビングを追い出されて通路に立たされた。どうしようかと考えながら、別室前のヘビとしばらく見詰め合う。「あのっ」「何だ」「あ、あの」「だから何だ」
不毛なやりとりを繰り返し、玄関に辿りついた所であたしは意を決した。
「上杉部長、ごめんなさい。先に謝っておきます。何かあったらお詫びに伺いますから、いつでも言って下さい。本当にごめんなさい」
「おまえは一体何を謝ってる」
「それはもう色々と……あの、女の物っていうか、そういうのが残ってて。もし誰かが見てしまったらと思うと」
メガネの奥で、彼の瞳がきゅっと細くなった。「そうか」と目を逸らす。
「今日の事は黙っておいてやる。おまえもここで見た事は忘れろ」
……何を?
あたしが見た物。ヘビ。恐竜フィギュア。10円ハゲ。無邪気な素顔。
これだけ真剣に言うのだから、そんな物ではない。強いて言うなら、女の影だ。
知られたくない存在。訳あって隠してる。それだけ大切にしている。
午前10時。
外に出て初めて、ここが横浜だと言う事が分かった。