いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
置いてけぼり。
「林檎」
コピーですね。
「あと1部ずつを」
はい。それぞれ営業部長に渡しておきます。
「来月のさ」
講義のご案内。いつものように得意先にはメールでご招待しておきました。
あれからというもの、雑用は絶え間なく襲ってくる。鈴木くん同様、あたしも一日中メモをチャージして歩いた。こんな事するのって、新人以来かもしれない。
上杉部長は直接4階フロアにやってくる余裕も無いほど忙しいのか、最近は内線が大活躍している。林檎、林檎、林檎……あたしは呼ばれてスッ飛んだ。
ちょっとでも遅れたら、「ノーパン気にする暇があったら、さっさと動け」
ちょっとでも失敗したら、「俺の顧客を飛ばしたら、ぱんつを晒すぞ」
もたもたしてると、「遅いぞ」「潰すぞ」「殺すぞ」あたしは、どこでも怒られた。新人教育の常識として……褒めるときはみんなの前で、叱るときはこっそりと。ではなかったか?
「あたしの見当違いかな。最近のまゆは、まるで上杉部長の飼い犬だね」
美穂の言う通りだと思う。そしてあたしを飼い犬扱いするのは、上杉部長だけではない。今も続々とやってきて、容赦なく襲い掛かる女子郡をも含む。
「林檎さんって、どれですか」
上から下までずいーっと眺めてくれるのは今まで通りだが、「上杉さん、お菓子とか食べますか?」「メルアド教えて下さい」「お住まいはどこ?」やたらお問い合わせが殺到するようになった。えー、わたくし林檎は、皆様から愛される飼い犬を目指しておりますので、どのご質問にも的確に……んな訳ないっ!
「会社で禁じられておりますので」「存じませんので」「個人情報ですので」
小首を傾げて、最高の笑顔を取り繕った。ひたすらそれを繰り返すうち、噂も熱を失っていくだろう。そして誰も居なくなった、という結果を目指して、「あれは嘘です」「申し訳ございません」「個人情報です」鏡に向かって、どう言えば自然に聞こえるかと練習してみたり……あたし、前向きじゃね?
あの噂は嘘です……今までは、それを繰り返す度に、否応なく自分の本心を置いてけぼりにした。あれは間違っていない。置いてけぼりにする事で仕事に集中できるのだ。この胸内に集まる感情が形になる事を、あたしは決して許さない。絶えず残念データを投入して、そこからジワジワと腐らせてやる。
「人に言えない女がいます」「ハゲてます」「好きなタイプは、ヘビ」
パンチの足りない残念を、自分に言い聞かせた。そこで急に内線が鳴って驚いたけど、このお呼び出しは鈴木くんだった。時計を見ると、午後2時を回る頃。
「今行くね」
あたしは残念データの刈り場に向かって、今日も揚々と階段を駆け上がった。
間に合わなかった、という表現は変かもしれない。上杉部長は管理部に呼ばれたとかで、ついさっき4階に向かったばかりだと聞いた。あたしは鈴木くんから、修正が必要だという資料をどっさり渡されて……げんなりする以上に、ここにターゲットが居ない事に、ただただ、拍子抜けしている。
よく見ると、資料の1番上、その顧客名に見覚えがあった。
「これって、うちの3課の担当じゃないの?」
久保田の所だ。
鈴木くんは、いつ上杉部長がやって来るかと気にしつつ、なのか?
「3課に後回しにされちゃって。それが嫌みたいで。すみません」
仕切りと通路を気にしながら、あたしに頭を下げた。
鈴木くんに謝られても……そういう事ならと、とりあえず1枚1枚チェックして急ぎの案件として3課に振ろう。渡されたからって、勝手によその担当に手を付ける訳にはいかない。久保田だから無視していいや、という訳にも。
あたしの用事はそれだったらしい。一様の決着を見た。もうここに用事はない。それなのに、勝手に言い訳を探してこの場に留まろうとする自分はおかしい。
そこに……耳に馴染んだ靴音が聞こえてくる。程なくして、やってきた上杉部長は1秒こちらに目線を飛ばして、何も言わずその先の会議室に消えた。鈴木くんが慌てて、その後に続く。かと思ったら、「あ、林檎さんも良かったらどうぞ」
何だか適当に誘われたな。「何が良かったら?」そこで鈴木くんは会議室とあたしを交互に見て、何やら悩んで、「どうぞどうぞ」とダメ押ししてくる。
嫌な予感をひしひしと感じるけど、とりあえず様子を窺いながら、あたしも刈り場に……じゃなくて会議室にお邪魔した。
見ると、上杉部長は椅子に座って、呑気に一般女性誌なんかをめくっている。
〝小悪魔に魅せる!瞳はラブリーにスパイスを添えて〟
〝彼と初めてのお泊まりはベビー・ピンク。チークもリップもこれ一本〟
思わず2度見した。どこに興味を覚えているのか最大の謎だ。
まさか、そういう女子あるあるを期待して、あたしを呼んだのか、鈴木くん?
「小さいんですけど、うちの公開講座の広告が載っているんですよ」
鈴木くんから、もう1冊を手渡されて、「ほら、ここです」と来る。
覗き込んだら、今人気の外部講師を招いた我が社の1日講座の広告が載っている。だが如何せん、小さ過ぎた。「うーん」何より、うちみたいなお堅い系がこんな類の雑誌に載せる意味あるのかな。
「ムダな事を」と、さっそく上杉部長が不服そうな声を上げた。鈴木くんとあたしは目と目で通じあう。なるほど……あたしに期待するのはクッションか。
「ま、いいじゃないですか。人気雑誌だし。小さくても載せてもらえるだけで」
「女の靴に5万か」
そっち?
どうも部長は、その隣りのファッションページに意識を奪われていたらしい。
女子あるあるとクッション、同時に要求されるとは思ってもみなかった。
「オトナ女子は、今はそれぐらい常識ですよ」
「常識を疑う。これが一体どこを鍛えてくれるのか。まさか食べられるのか」
「だから、わざわざ鍛えなくても足が細く見えるって事ですよ」
「細く見せたいなら痩せればいいだろ」
「パンが無いならケーキ。それが出来たら悩みません。雑誌も終わりです」
「大体、金が勿体ない。俺が本気出したらそれで1カ月は暮らせる」
「いいとこ住んでる部長が言っても説得力ありませんけどね」
上杉部長が一瞬たじろいだせいで、会話が止まった。え……あたし、勝った?
マジで?調子づいたその勢い、口が止まらなくなる。
「大体、部長のそのスーツ、この靴の何倍ですか。結構、高価いですよね」
「これって高価いのか?」って、鈴木くんに訊く意味がわからない。
「自分で買わないんですか」
「金は出すけど」と言いかけた途中のまま、部長は雑誌の先をめくる。
これのどこが勝ったのか。
あたしは後悔した。愚問だったかもしれない。それを選んだセンスは、あの彼女のもの。妙に落ち着かなくなって、目に付いた別の雑誌をめくったら〝イケメン上司の甘い誘惑〟という本の広告が目に飛び込んでくる。あまりの不条理に勢い次をめくったら、あろう事かランジェリー特集にぶち当たった。あたしはそれを、1つの企みをもって部長の目の前に堂々と広げる。必殺〝逆セクハラ〟。
あなたも男なら、ここで堂々とスケベを晒して、軽蔑に値する反応を見せておくれ……上杉部長と視線がぶつかった。向こうも売られたケンカと悟ったらしい。
「おまえみたいな」
フンと鼻で笑って、そこから、あたしを上から下までずいっと眺めたと思うと、
「そういう幼児体型にも、こんなのが必要なのか」
とん、と指で弾いたのは、夏を目前にした透けないブラジャー特集。
そう来たか。さすがセクハラの重鎮。一筋縄ではいかない。深呼吸、すーはー。
「それを言ったら部長は、パンツを穿くほどそちらは御立派なんですか?って事になりますが」
こっちも思わずムキになる。次に、上杉部長の口元には邪悪な笑みが浮かんで。
ぱんつ……そこを自ら紐解いてしまった。気付いた時にはもう遅い。
「ご立派かどうか知らないが、パンツは人類全体に必要だろ。おまえにだけは言われたくない」そこから下を向いて笑い始めた。
「おおおおおお大きなお世話かもしれませんが!みんな部長を怖がってるみたいですけど、おおおお気づきですか?!それってお仕事に影響しません?」
あたしは熱烈、話題をスリ変えた。操られてくれるかどうかは半信半疑だったけど、「俺って怖いのか」笑い混じり、さっそく鈴木くんに訊いているから作戦成功(?)。訊かれた鈴木くんは、びくっと反応して、ぶるぶると首を振った。
「ほらぁ。脅えてるじゃないですか。入社6年目のあたしだって怖いですもん」
「林檎が怖がってるように見えるか」
訊かれた鈴木くんはまたしても、ぶるぶると震えた。……どっちなのよ。
「他の野郎が優しいというなら、それは、おまえが舐められてんだよ。どうせ舐められるなら違う所にしろ」
途端、妄想が予期せぬ領域に暴走しそうになって、胸内が騒ぎ始める。
「よ、よくクビになりませんよねっ。そ、そんなセクハラ発言ばっかり」
「ノーパンのおまえがセクハラを語るな」
うぐっ。
「林檎さんって、家でノーパンなんですか。知らなかったです」
鈴木くんが大真面目な顔でブチ込んでくれたその時、上杉部長の携帯が鳴った。
「Hello」
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