いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
さっそく5月病がこじれているのかな?
「リーダーがね、この小悪魔アイライナーが見苦しいって言うのっ。お客様を威嚇するな、チャラチャラするなって。うっ……」
新人女性社員は、いきなり泣き出した。
「確かに、くるんって目尻を強調するライナーは攻撃的だな……あ、いや。リーダーって、女?」
「お、お、お」と繰り返して泣きじゃくるので、いまだどっちか分からない。アイライナーは涙でダダ崩れ、小悪魔を通り越して般若だよ?
「お、お、怒られたんですぅ!」
「それは最初に聞いたよ?」
この所、上司に怒られて辞めたいという新入社員が続出していた。こうして頼ってやって来るのはいいけれど、当事者やその上司から困惑されて、「気を付けます」「言っときます」「やっときます」と煙たがられるのは、対処に赴いたあたしなのだ。あたしの睨みがきくのは28歳以下の社員に限られた。だからといって、いくら年下でも相手が男性社員だったりしたら、あたしだって睨まれたら怖いよ?
「これから汗掻く季節じゃん?それ崩れたらヤバい人だよ?」ほら、と鏡を見せて説得力を持たせ、「うわ。本当だ」涙が枯れて一通りの決着を見た所に、また「林檎さぁぁぁん!」と別の新人が現れて……林檎さん。林檎さん。林檎さん。
それは決まって毎年の新人研修直後、配属後の新人が次から次へと現れる。聞いてやれば、何てことない備品を探していたり、掴まらない謎の社員はどこ?とやっぱり探していたり。そこからついでのように仕事の愚痴を吹き散らす。探し物と愚痴、この時点でどっちがついでなのか分からなくなる。
うんうんと聞いてやり、相手が吐くだけ吐き出して、一様の決着を見た所で一息。やっと自分の作業に取り掛かった。
新人の気持ちも分からない訳ではない。配属されたばかりの職場で極度の緊張感の中、慣れない事ばかりで倒れそうな毎日。それでも夏のボーナスまで持ち堪えれば、後はそれぞれがモチベーションを保って何とかやっていけるものだ。
「あとちょっとの辛抱だからね?」それを世間では〝慣れ〟と言う。
あたしのモチベーションは、ずばり〝お酒〟だった。初めて飲んだのは、就職が決まったお祝いに、という遅咲きである。ワイン750mlを買うお金を、えいやっ!と思い切って小さなボトルの日本酒に投じたのが運命の出会いだった。
口に入れた途端にふわっと膨らむ喉元。鼻や口からは熱を帯びた吐息が漏れた。大人の気分なんてもんじゃない。あたしを取り囲むそこら中が、一瞬で悩ましいお色気モードに変わる。官能的って、こういう事なのかぁ。そこから種類の違う官能を求めて、銘柄を酒場を、あたしは彷徨う事になる。お酒の味は、その時の自分のコンディションにさえ左右される事が分かったのは、つい最近だ。
それから。
好い事があった日は、ちくっと。
嫌な事があった日も、ちくっと。
同じお酒でも味が全然違う!心の動きとお酒の味わいを交互に堪能するのが、あたしのマイブームとなった。白状しよう。この所は、香水の小瓶にこっそりお酒を仕込んで持ち歩いている。会議で発言、上司に提言、営業に文句、様々な勝負の時にはこっそり、ちくっと舌先に仕込んでから現場に向かった。
「それってアルコール依存症じゃないの?」同期で友達の武内美穂には、ほんのり心配されてるけど、「大丈夫大丈夫。ちょっと舐める程度だもん。ケーキに入ってるラム酒みたいなもんだよ。そんな変わらないって」
ダメ?
思わず目で訴えた。
「たまにやってくるビッグバンが、それで回避できるならいいけどね」
美穂の言う通りだった。
あたしがお酒で暴走すると、少々厄介な事になる。フッ、これは忘れたい。
「さ、仕事に戻ろ」
資料に必要なデータを探り始めたそこに同じ課の後輩、渡部祐真がやって来た。
「林檎姫、ささ」と誰かのお土産を、恭しく献上してくる。
「それ止めよ?妙な噂が立ってるの知ってるよね」
この渡部くんは3年後輩だ。この子に限らず、新人研修でお手伝いに行った先で仲良くなり、軽口を叩く後輩数知れず。頼られているんだか舐められているんだか分からない。不名誉なあだ名まで付けられてしまうし……。
「ちょっと管理課に行って来るから」と、途中になったデータ収集を渡部くんに任せてデスクを離れた。
向かった通路エレベーター前に、派手なネクタイの男性社員が居る。チッ!
「おう、後輩ヤリマン」
片手を上げて陽気にセクハラをカマしてくれた。クリエイター3課に居て、3つ先輩の久保田昇である。派手なネクタイとは失礼、趣味の悪いネクタイである。
濃紺スーツで見た目硬派に見せているけれど、こいつの中身はチャラ男だ。そのチャラさが淫靡な柄のネクタイからも滲み出ている。こいつは許しがたい。
というのも、あたしの元に駆けこんでくる新人の大半は、先輩からの指導という名のハラスメントが殆どで、こいつは連続トップで名前が上がるのだ。うちの部署だけならいざ知らず、管理課、人事課、システム課、その被害は多岐に渡る。
あたしに〝後輩ヤリマン〟と不名誉なあだ名を付けてくれた張本人でもあった。ヤリマンどころか、彼氏居ない歴生まれてよりずっと続いてんだけど!なんて、キレても言うんじゃない。弱みを握られるだけだ。
「俺は林檎が羨ましいよ。会社で後輩と遊んでりゃ給料もらえんだからな。管理課行くならユリちゃんと合コン、繋いでくれない?」
1度は無視した。
「それぐらいしろよぉ。おまえのせいで女に避けられてんだぞ」
「女だけじゃないです。会社中から嫌われてるってそろそろ自覚して下さい」
先輩と分かっていても、敬語を使う事にすら抵抗がある。「生意気な」とか「女のクセに」とか、エレベーターに集まって来る社員を気にしつつ、あたしにだけ聞こえるようにブツブツと垂れ流した。
エレベーターを待ってる間中、久保田の嫌がらせを聞くのも耐えられないと、あたしはエレベーターを諦め、その先の階段ドアを開けた。踊り場で独りになるとホッとする。はぁ~と溜め息をついた。こういう時だよね。ちくっとやりたい気分はさ。逃げた幸せの欠片を、ぱくっと取り戻してから先を急いだ。
管理課はあたし達のフロアから1つ下の3階だ。階下へ降りて行こうとした時、上から誰かが降りてくる事に気が付いた。
それは男性の声で、
「君の顔が嫌いだ」
低い、それでもよく通る声だった。
かつん、かつんと、ヒールの音がフェードインでその声に重なったと思ったら、
「そんなの治し様がありません。整形しろって言うんですか」
「そうだな。そうしてくれ。誰だか分からなければ、こっちも都合がいい」
「そんな!私はただ、もっとあなたの事が知りたくて。それだけで」
まずい所に居合わせたかもしれない。いや単純に面白そうだ。これはいい肴になるゾ。あたしはその下の踊り場で手すりに隠れて様子を窺った。
「待って下さい!行かないで」
踊り場から4階フロアに通じるドアを塞いで、女の子は食い下がった。
「誰か他に、付き合ってる人とか居るんですか」
「居ない」
これだから男は!思わず眉間にシワが寄る。断るなら、嘘でも居るって言ってくれた方が諦めが付くのに。分かってない。
「俺は、君の事が嫌いだ。1日どころか1分でも君と話す時間がもったいない」
うっわー……あたしは思わず両腕を抱えた。痛い、痛い、痛いっ。
男の方はこっちに背中を向けているので全貌がよく分からないけれど、相手は随分と可愛い女の子だった。ふわふわな長い髪、清楚な白いブラウスにベビーピンクのスカート。まだ大学生じゃないかと思うほど初々しい。
「見た所、君は中途半端だ。自分に自信がない。弱すぎる。何でも男に頼ればいいと思っている。だから、こうやって権力ありそうな輩にすがろうとする」
「ご、ごめんなさい」
「そうやって謝れば済むと思っている」
「そ、そんな事ないですけど」
「自己紹介から君を見ているけど、もう残念としか言いようがない」
この男には、嘘を付くどころか、曖昧とか遠回しとか、そういう概念が一切無い。まるで存在を否定されているみたいだった。
その女の子は何を言うのも諦めて、というか耐えきれず、泣きながら階段を降りてくる。あたしのすぐ横を駆け降りて行くその姿を目で追って、視線を戻したその先、そいつと目が合った。
メガネ王子。元ヤン。極道。多くの異名を持つ〝上杉東彦〟その人である。
また喫煙タイムにわざわざ降りてやってきたのか。いつかのように目を細めて、こっちを睨み付けている。不意に胸のポケットから何やら封筒のような物を取り出したかと思うと、くしゃっと潰して投げて寄越した。ナイスキャッチ!したその中身を取りだしたら、ペアの旅行券。一泊10万円。思わず2度見した。
「口止め料だ。仕事中にヤラしい事考えるなよ」
それだけ言って、上杉東彦はドアの向こうに消えた。
< 2 / 34 >

この作品をシェア

pagetop