いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
彼女が居るでしょう。というより、そんな事言うキャラでしたっけ?
熱っぽく見詰められているように思えて、次第に胸内が騒ぎ始めた。心臓が暴れている。剥き出しの本音が勝手に飛び出してきそう。お酒の勢いも手伝って、理性と本能がめまぐるしく交錯した。せり上がる気持ちを押さえ込むみたいに、3秒だけ息を止める。敬語スタート。
「あたしも楽しかったです。今日みたいなヤサぐれないお酒は久しぶりでした。今の所、鈴木くんから聞いた事も、自分が何言ったかも覚えています」
「じゃ俺が言った事は」
「覚えてますよ。毒舌の一言一句、欠かさずに」
「覚えてたら、そんな普通にしてられない筈だけど」
思わず口元を押さえた。え、うそ。もう忘れてる?
少々動揺したら、歩道の縁石に踵がぶつかって足元がちょっとフラついた。腕を掴まれて、半袖から剥き出しのナマの二の腕に、部長の手のひら指の一本一本がグイと食い込む。強引とも思える力の強さ、腕を包み込む温かい指先に、また騙されそう。
「す、すみません。何度も何度も」
そう謝っても、なかなか手が離れない気がした。ちょっとだけ永いように感じた。いつまでも掴んだ指の痕跡が消えずに残るみたいに。
「そんなんで帰れんのか」
「こんなの全っ然、平気ですよ。ジャイアーン」
照れ臭い事も手伝って、勢い、言ってもうた!
「俺がそう呼ばれてる事は知ってるけど、面と向かって言われたのは初めてだ」
「これ、純粋に悪意ですっ」
軍隊コント参戦。鈴木くんを真似て敬礼したら、彼は吹き出して、「ムカつくけど笑える。それがまたムカつく」いつかのような無邪気な笑顔を見せてくれた。
撃ち抜かれそう。キャン言いそうになる。またあちこちからゾロゾロと集まってきて騒ぎ始めた。潰す。蹴散らす。今は賑やかな並木通りに、このまま置いてけぼりだ。
「で、何ですか。部長が言った事って」
「何だったかな」
「なるほど。そういう手口で女性の気を引く。これがヤリチンの実態ですね」
「周りを見ろ。人類が消えた。今度、公の場でヤリチンとか言ったら殺すぞ」
「周りを見ましょう。殺すとかいうから、また人類が遠ざかって」
思わず笑いが込み上げる。部長と目が合った途端、もう我慢できなくなって、そこから2人で笑い続けた。こんなに楽しいお酒は久しぶり。何と言っても悪酔いが無かった。あれはお酒が原因ではなくて、ストレスが、あたしをおかしくしていたのかもしれないと思う。「はははー」と、今は余裕で笑顔だった。
「ららら♪そこまで言うなら歌いますぅ~」
「いつも以上にヤバい奴になってるけど、本当に大丈夫なのか」
「はいっ。今日は史上初、1人で帰れそうですっ」
また敬礼した。それも何となく残念なような……彼をちらっと見る。
「おまえみたいにポンポン返って来る女は初めてだ。ムカつくけど面白い」
褒めてくれたのかな。それじゃあたしもお返しに。
「ジャイアンも凄いじゃないですか。あんな大人数。ムカつくけど凄いです」
「実は、あそこまでの人数は初めてだった。今まで少人数が殆どで」
そうなんだ。
「でも堂々と見えました。慣れてる感じで」
10円ハゲが出来るほど、慣れるまでのそれだけの苦労が、正直想像つかない。
「部長のおかげでこの所、本当に忙しいです。でも……すごく充実してます」
お酒より楽しい仕事はまだ見つからないけど、いつもと同じお酒が、もっと美味しいお酒に変わる事が分かった。その上、その上をもっと知りたくなる。もっともっと成長して、味わってみたい。
「ヤラしい事考えてる暇も無いだろ」
これは、すぐに頷けなかった。慌てて、頷いたのかゴクンと飲み込んだのか、2つをごっちゃにしたような反応になる。
「確かに、そんな暇無いかもしれません。企画書とか、あと他にも色々あって、もうバタバタしてます……あたしって要領悪いのかな」
心の中で言ったつもりの最後のタメ口が、うっかり声に出てしまった。
「おまえはよくやってる」
こんな事ぐらいで込み上げてくるとは思わなかった。気を抜いたら、マジで泣く。本気出したら号泣できそう。
「何でも上手く進んだら面白くない。おまえぐらいバタバタした方がいい経験になる。俺は今でもとことん下準備してから講義に臨むから、殆ど失敗しない。それが残念だ。困ってバタバタする奴らが羨ましい」
思わず涙も引っ込むほどの、かなり上から目線の天狗野郎だ。でもこれを、いつもの毒舌だと判断するのは早かった。
「だから……仕事で困ってる奴らに関わりたいと思うようになった」
そういう経緯でこの仕事に就いた……真性ナチュラルな本音だと思える。
「あれだけ転びまくった鈴木が、最近妙に頼もしいのも、ムカつくような」
「あの」
呪いだな、という顔になった。
「1度訊こうと思って。部長は、素直に褒めるって事が出来ないんでしょうか」
彼が息を飲むのが分かった。まさか、また地雷踏んだ?
「で、でもまぁ後輩ヤリマンとして、そういう複雑な感情は理解できます」
とかって、慌てて助け舟を出す羽目に陥るとは……なんか調子狂うなぁ。
そこで部長は時計を見て、「明日も早いな」とか言い出す。それが着地点になるなら、「そうですね」あたしも時計を見て、同じように寄り添っておこうかと。
さらにダメ押し、「あたし、明日からもっとバタバタ暴れます。上杉部長の分まで、困って困って、転びまくりますから」
「そこまで言うなら、いっそのこと、もう死んでくれ」
2人揃って今日一番、大きな声で笑った。
今なら、ちょっと踏み込んで聞けるかもしれない。
「あの……いつかの、見た事忘れろって言われた件なんですけど」
あれは何だったのか。それを訊こうとした所、途端に部長は表情を硬くした。
「ちょっと気を許したと思ったら、さっそく脅迫か」
「脅迫って。いえあの、そんなんじゃ」
彼は急に立ち止まった。
「おまえがあの日、何を見てどう誤解してるか知らないが、妙な噂を立てるな」
思いがけず深刻な様子に思いを止める。あたし一体何を見たんだろう。
「そんな事しません。誰にも言わないって約束しました。守ります」
「もういい。見た事は、おまえには事実だ。誰に何を言おうとそれは自由だ」
この話は、もうしない……そう言ったきり、上杉部長は黙り込んでしまった。
言わなきゃよかった。これじゃ、せっかくの楽しいお酒が台無しだ。
そこからしばらく無言で歩く。部長が歩くのが早くて、こっちは何度も躓きそうになった。妙に距離を取ろうとしているようにも思える。それなら!とこっちも意地になって、追い掛けるみたいに歩く事に懸命になった。
そうこうしているうちに、何台もタクシーを見送って……10時かぁ。
深夜までやってるカフェが見えてくる。何度もオゴってもらってるし、コーヒーぐらいお返しした方がいいかな。正直、この気まずい雰囲気のまま別れたくなかった。弁解するチャンスが欲しい。こういう時、彼氏居ない歴28年というキャリアが邪魔する。気軽に誘えない。
あ、可愛いカフェ……よくあるチェーン店だし。
わっ、喉が渇いた……ワザとらしい。中2か。大人なら自販機で買えよ。
相手が、鈴木くん、渡部くん、宇佐美くんなら、気軽に誘ってるかもしれない。なるほど、これが後輩ヤリマンの実態です。
上杉部長の背中が、急に遠く感じた。強くなった風に乗って、鼻先に淡い香料の香りが届けられる。いつだったか、しがみついた時に感じた、あの男性的な甘い香りだった。いつもの煙草の匂いも混ざって、今は何だか息苦しい。
突然、彼が歩くのを止めて後ろを振り返ったので、追い抜こうとしたあたしとぶつかった。携帯が鳴り始めて、部長もこっちも、慌ててあちこちを探る。
「あたしです」
急に現実に引き戻されたみたい。ぼんやり通話を繋げたら……渡部くんだった。
「渡部くん?どうしたの?」
『今どこっすか?美穂さん心配してますよ』
「って、そういう渡部くんは今どこ?また来てるの?」
『うい。美穂さんとこっす』
「あそ。あたし今から帰るけど。いいのかな」
『やっぱ飲んでるんすか?美穂さんが、目の届かない所で飲ませちゃダメって』
「はいはい、飲んでまーっす。ね、今誰と一緒に居ると思う?」
わざと明るく飛ばして、上杉部長の様子をちらっと窺った。通り過ぎる車に気を取られるフリで何の関心も寄せていない。つまりまだ機嫌が直っていないのだ。
『また新しい犠牲者ですか?もうフォローしませんよ。確か酒辞めるんでは』
「何よ急にエラそーに。っていうか、さっさと結婚しろぉ」
『そんなのまだ先の事でっしょー』
「嬉しそうに言うなぁ」
『林檎先輩こそ幸せな結婚決めて下さいよ。後に続く後輩女性社員のためにも』
「もう、今そんな先の事を」
上杉部長がそこで強引に携帯を奪った。
「俺だ。渋谷に居る。カフェに酔っ払いを閉じ込めておくから迎えに来い」
え?
「彼氏が来るまで、しばらくそこで酔いを覚ませ」
そこから、上杉部長はタクシーに1人飛び乗って、行ってしまった。
取り残されたまま、その場に立ちすくんだまま、あたしはこれまでのやりとりを、ただただ反芻した。気まずい空気を飛ばすどころか、渡部くんと誤解された。
電話口からは、ずっと渡部くんの声がしている。
『林檎先輩、さっきの誰っすか。また何かヤラかしたんっすか?どこのカフェっすか?これから美穂さんと行きますから、そこを絶対動かないでくださいよ』
さっきまで、ここに居たのに。まるで幻を見たようだった。
そこら中、置いてけぼりにしたはずの欠片が、一斉に集まって来て騒ぎ始める。
渡部くんの声を遠くに聞きながら……消えた幻を必死で手繰り寄せた。
熱っぽく見詰められているように思えて、次第に胸内が騒ぎ始めた。心臓が暴れている。剥き出しの本音が勝手に飛び出してきそう。お酒の勢いも手伝って、理性と本能がめまぐるしく交錯した。せり上がる気持ちを押さえ込むみたいに、3秒だけ息を止める。敬語スタート。
「あたしも楽しかったです。今日みたいなヤサぐれないお酒は久しぶりでした。今の所、鈴木くんから聞いた事も、自分が何言ったかも覚えています」
「じゃ俺が言った事は」
「覚えてますよ。毒舌の一言一句、欠かさずに」
「覚えてたら、そんな普通にしてられない筈だけど」
思わず口元を押さえた。え、うそ。もう忘れてる?
少々動揺したら、歩道の縁石に踵がぶつかって足元がちょっとフラついた。腕を掴まれて、半袖から剥き出しのナマの二の腕に、部長の手のひら指の一本一本がグイと食い込む。強引とも思える力の強さ、腕を包み込む温かい指先に、また騙されそう。
「す、すみません。何度も何度も」
そう謝っても、なかなか手が離れない気がした。ちょっとだけ永いように感じた。いつまでも掴んだ指の痕跡が消えずに残るみたいに。
「そんなんで帰れんのか」
「こんなの全っ然、平気ですよ。ジャイアーン」
照れ臭い事も手伝って、勢い、言ってもうた!
「俺がそう呼ばれてる事は知ってるけど、面と向かって言われたのは初めてだ」
「これ、純粋に悪意ですっ」
軍隊コント参戦。鈴木くんを真似て敬礼したら、彼は吹き出して、「ムカつくけど笑える。それがまたムカつく」いつかのような無邪気な笑顔を見せてくれた。
撃ち抜かれそう。キャン言いそうになる。またあちこちからゾロゾロと集まってきて騒ぎ始めた。潰す。蹴散らす。今は賑やかな並木通りに、このまま置いてけぼりだ。
「で、何ですか。部長が言った事って」
「何だったかな」
「なるほど。そういう手口で女性の気を引く。これがヤリチンの実態ですね」
「周りを見ろ。人類が消えた。今度、公の場でヤリチンとか言ったら殺すぞ」
「周りを見ましょう。殺すとかいうから、また人類が遠ざかって」
思わず笑いが込み上げる。部長と目が合った途端、もう我慢できなくなって、そこから2人で笑い続けた。こんなに楽しいお酒は久しぶり。何と言っても悪酔いが無かった。あれはお酒が原因ではなくて、ストレスが、あたしをおかしくしていたのかもしれないと思う。「はははー」と、今は余裕で笑顔だった。
「ららら♪そこまで言うなら歌いますぅ~」
「いつも以上にヤバい奴になってるけど、本当に大丈夫なのか」
「はいっ。今日は史上初、1人で帰れそうですっ」
また敬礼した。それも何となく残念なような……彼をちらっと見る。
「おまえみたいにポンポン返って来る女は初めてだ。ムカつくけど面白い」
褒めてくれたのかな。それじゃあたしもお返しに。
「ジャイアンも凄いじゃないですか。あんな大人数。ムカつくけど凄いです」
「実は、あそこまでの人数は初めてだった。今まで少人数が殆どで」
そうなんだ。
「でも堂々と見えました。慣れてる感じで」
10円ハゲが出来るほど、慣れるまでのそれだけの苦労が、正直想像つかない。
「部長のおかげでこの所、本当に忙しいです。でも……すごく充実してます」
お酒より楽しい仕事はまだ見つからないけど、いつもと同じお酒が、もっと美味しいお酒に変わる事が分かった。その上、その上をもっと知りたくなる。もっともっと成長して、味わってみたい。
「ヤラしい事考えてる暇も無いだろ」
これは、すぐに頷けなかった。慌てて、頷いたのかゴクンと飲み込んだのか、2つをごっちゃにしたような反応になる。
「確かに、そんな暇無いかもしれません。企画書とか、あと他にも色々あって、もうバタバタしてます……あたしって要領悪いのかな」
心の中で言ったつもりの最後のタメ口が、うっかり声に出てしまった。
「おまえはよくやってる」
こんな事ぐらいで込み上げてくるとは思わなかった。気を抜いたら、マジで泣く。本気出したら号泣できそう。
「何でも上手く進んだら面白くない。おまえぐらいバタバタした方がいい経験になる。俺は今でもとことん下準備してから講義に臨むから、殆ど失敗しない。それが残念だ。困ってバタバタする奴らが羨ましい」
思わず涙も引っ込むほどの、かなり上から目線の天狗野郎だ。でもこれを、いつもの毒舌だと判断するのは早かった。
「だから……仕事で困ってる奴らに関わりたいと思うようになった」
そういう経緯でこの仕事に就いた……真性ナチュラルな本音だと思える。
「あれだけ転びまくった鈴木が、最近妙に頼もしいのも、ムカつくような」
「あの」
呪いだな、という顔になった。
「1度訊こうと思って。部長は、素直に褒めるって事が出来ないんでしょうか」
彼が息を飲むのが分かった。まさか、また地雷踏んだ?
「で、でもまぁ後輩ヤリマンとして、そういう複雑な感情は理解できます」
とかって、慌てて助け舟を出す羽目に陥るとは……なんか調子狂うなぁ。
そこで部長は時計を見て、「明日も早いな」とか言い出す。それが着地点になるなら、「そうですね」あたしも時計を見て、同じように寄り添っておこうかと。
さらにダメ押し、「あたし、明日からもっとバタバタ暴れます。上杉部長の分まで、困って困って、転びまくりますから」
「そこまで言うなら、いっそのこと、もう死んでくれ」
2人揃って今日一番、大きな声で笑った。
今なら、ちょっと踏み込んで聞けるかもしれない。
「あの……いつかの、見た事忘れろって言われた件なんですけど」
あれは何だったのか。それを訊こうとした所、途端に部長は表情を硬くした。
「ちょっと気を許したと思ったら、さっそく脅迫か」
「脅迫って。いえあの、そんなんじゃ」
彼は急に立ち止まった。
「おまえがあの日、何を見てどう誤解してるか知らないが、妙な噂を立てるな」
思いがけず深刻な様子に思いを止める。あたし一体何を見たんだろう。
「そんな事しません。誰にも言わないって約束しました。守ります」
「もういい。見た事は、おまえには事実だ。誰に何を言おうとそれは自由だ」
この話は、もうしない……そう言ったきり、上杉部長は黙り込んでしまった。
言わなきゃよかった。これじゃ、せっかくの楽しいお酒が台無しだ。
そこからしばらく無言で歩く。部長が歩くのが早くて、こっちは何度も躓きそうになった。妙に距離を取ろうとしているようにも思える。それなら!とこっちも意地になって、追い掛けるみたいに歩く事に懸命になった。
そうこうしているうちに、何台もタクシーを見送って……10時かぁ。
深夜までやってるカフェが見えてくる。何度もオゴってもらってるし、コーヒーぐらいお返しした方がいいかな。正直、この気まずい雰囲気のまま別れたくなかった。弁解するチャンスが欲しい。こういう時、彼氏居ない歴28年というキャリアが邪魔する。気軽に誘えない。
あ、可愛いカフェ……よくあるチェーン店だし。
わっ、喉が渇いた……ワザとらしい。中2か。大人なら自販機で買えよ。
相手が、鈴木くん、渡部くん、宇佐美くんなら、気軽に誘ってるかもしれない。なるほど、これが後輩ヤリマンの実態です。
上杉部長の背中が、急に遠く感じた。強くなった風に乗って、鼻先に淡い香料の香りが届けられる。いつだったか、しがみついた時に感じた、あの男性的な甘い香りだった。いつもの煙草の匂いも混ざって、今は何だか息苦しい。
突然、彼が歩くのを止めて後ろを振り返ったので、追い抜こうとしたあたしとぶつかった。携帯が鳴り始めて、部長もこっちも、慌ててあちこちを探る。
「あたしです」
急に現実に引き戻されたみたい。ぼんやり通話を繋げたら……渡部くんだった。
「渡部くん?どうしたの?」
『今どこっすか?美穂さん心配してますよ』
「って、そういう渡部くんは今どこ?また来てるの?」
『うい。美穂さんとこっす』
「あそ。あたし今から帰るけど。いいのかな」
『やっぱ飲んでるんすか?美穂さんが、目の届かない所で飲ませちゃダメって』
「はいはい、飲んでまーっす。ね、今誰と一緒に居ると思う?」
わざと明るく飛ばして、上杉部長の様子をちらっと窺った。通り過ぎる車に気を取られるフリで何の関心も寄せていない。つまりまだ機嫌が直っていないのだ。
『また新しい犠牲者ですか?もうフォローしませんよ。確か酒辞めるんでは』
「何よ急にエラそーに。っていうか、さっさと結婚しろぉ」
『そんなのまだ先の事でっしょー』
「嬉しそうに言うなぁ」
『林檎先輩こそ幸せな結婚決めて下さいよ。後に続く後輩女性社員のためにも』
「もう、今そんな先の事を」
上杉部長がそこで強引に携帯を奪った。
「俺だ。渋谷に居る。カフェに酔っ払いを閉じ込めておくから迎えに来い」
え?
「彼氏が来るまで、しばらくそこで酔いを覚ませ」
そこから、上杉部長はタクシーに1人飛び乗って、行ってしまった。
取り残されたまま、その場に立ちすくんだまま、あたしはこれまでのやりとりを、ただただ反芻した。気まずい空気を飛ばすどころか、渡部くんと誤解された。
電話口からは、ずっと渡部くんの声がしている。
『林檎先輩、さっきの誰っすか。また何かヤラかしたんっすか?どこのカフェっすか?これから美穂さんと行きますから、そこを絶対動かないでくださいよ』
さっきまで、ここに居たのに。まるで幻を見たようだった。
そこら中、置いてけぼりにしたはずの欠片が、一斉に集まって来て騒ぎ始める。
渡部くんの声を遠くに聞きながら……消えた幻を必死で手繰り寄せた。