いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
「あたし、大丈夫です」
自分で言ってておかしくなるほど声が震えた。思わず口元を片手で押さえたら、その手も震える。それを押さえようとしてもう片方を重ねても同じだった。
上杉部長は一言も発しない。やがて、根負けしたのか久保田の方からその場を立ち去った。まるで怒りのやり場をぶつけるみたいに靴音を立てて階段を降りて行く。吹き込んだ書類が階段を伝わって下に流れた。久保田が踏んだ跡まで付いて、メガネも転がったままで……そこで部長と目が合った。やっぱり何も喋らない。その瞳の奥で、あたしの何かを疑っているように思えた。本気で怒るとこういう顔になる。自分が悪い訳でもないのに「すみません」と謝った。
すぐに書類を拾おうとして、なのに手が震えて止まらない。両手をぎゅっと握り固めたその時、部長の手がスッと伸びて、あたしの両手に重なった。
武骨に掴まれた手を通じて、温かさが伝わって来る。凄く高価そうな腕時計だな。でも、それにも負けないくらい存在感のある大きな手だと思った。その腕時計の秒針をじっと眺めているうちに、次第に震えが収まって……どれほどの時間、そうしていただろう。部長の手は、そこから不意に離れて、今度はあたしの前髪を掻き分けた。覗きこんでくるその目は、もう怒ってはいない。
「頭、平気か」
許されたという安堵が、助けられた嬉しさも一緒になって身体中を回る。その温かい指先で額を探られているうちに、やっと、自然に涙が溢れてきた。全てが洗い流されて……この人、最高に格好いいな……そんな事を考える余裕まで出てくる。それが思いっきり顔に出ていたらしい。妙な反応だと疑われたのか、
「別に、おまえの脳ミソを疑った訳じゃない」
よく考えたらそうとも取れると、泣きながらも、ちょっとだけ笑ってしまった。
部長は、一瞬で眉間にシワを寄せて、
「そうやって適当にヘラヘラしてるから、この位ならイケると勘違いされて、男につけ込まれる」
小さな期待がぷちんと弾けた。
「おまえはスカスカなんだよ。まともな彼氏が欲しいなら余計な隙を見せるな」
こっちは被害者なのに、毒舌でボコボコ。それでも、自分がフリーだという事が部長に認識された事が純粋に嬉しかった。説教されたにも関わらず、相変わらず泣きながらニコニコしていたら、
「襲われかけたくせに風呂上がりみたいな顔して。どういう頭のエラーだ」
部長はそこでメガネを掛けて、そこから1度外して、割れたかどうか確かめてから、また掛けた。それを見てまた笑ってしまったら「まさか、ラリってんのか」
仕込んでいると疑われて、その証拠を確かめようと部長が近付いてくる。
「の、飲んでませんからっ」思わず、部長の胸元をドン!と本気で弾いてしまった。そこまでの接近に、今はあたしが耐えられないんです。
「それだけ元気ならよかった」
部長はやっと笑ってくれて……この笑顔が、ずるい。ここで飛びついたら、まるでさっきの久保田と同じだ。それでも2人で散らかった書類をまとめるうち、指先が触れたり、顔が近付いたりする度に、期待の風船が勝手にどんどん膨らむ。
あたし、この人が好きだ。
〝ここに、部長の事を男性として、真剣に意識しているあたしが居ます〟
言いたい。今言わなくていつ言うの。今でしょ。こっちが本気を伝えたら、彼女の存在、それを正直に話してもらえるんじゃないか。もうどんな事実でもいい。
そこに、誰かが下から階段を上がって来たかと思うと、おや?と顔を覗かせた。偶然、足元にあった書類を丁寧に拾って、「ほい」と手渡される。
岩槻部長だった。
「おいおい。何だ?お邪魔だったか」
「そうだな、手伝わない奴は邪魔だな。見て分からないかな」
「あんまりフィアンセを苛めるなよ。おまえ本当にフラれるぞ」
泣いた事が一目瞭然なのかと、あたしは急いで無造作に顔を拭った。
「苛める訳ないだろ。可愛い林檎は、俺が塩水にどっぷり漬け込んで丸ごと喰ってやる。誰と結婚しても仕事を続ける気なら容赦しない。泥沼になって破局するまでコキ使ってやるからな」
それを世間では〝苛める〟と言うのです。それより何より〝可愛い林檎〟とか初めて言われた。そっちの方が気になって気になって……毒舌が妙に嬉しいというのも、おかしい。あたしいつの間にかドM体質になってるのかな。
「おいおい。それは結婚相手が居なくて、ひがんでるとしか聞こえないぞ」
これほど親しい岩槻部長にすら、彼女の存在を言っていない事が分かった。場所を階段からフロアの休憩室に移して、そこから2人の小難しい話題が花開く。
過酷なクライシス実習、サバイバル研修、ブラック研修……そこから話題がいつかの女性誌の広告に移り、やっとあたしでも分かる世間話だと思ったら、
「付録でブレイクした雑誌の編集が、ライバルは他の雑誌ではなく、世の中の娯楽の全てだと言ってたなぁ。人が貴重な時間を投げ打って没頭する物、その全てがライバルらしい」
これは、うちの会社にも言えるな、と岩槻部長は遠い目をした。
中でもスマホは強敵だな、と上杉部長もそれに並んで、
「ジムだの英会話だの、同じ事ばっかりやってる奴らを叩き起こさなきゃ。研修なんか見向きもしない奴らに爆弾ぐらいは落としてやらないと」
上杉部長はそこで言葉を切って、殊更、真剣に悩んで見せたと思ったら、
「こっちが営業しなくても、アソコから涎垂らして向こうから来ないかな」
岩槻部長は呆れたように溜め息をついた。
「おいおい。おまえは相変わらず言葉が汚ない。よくそれで人が集まるな。うっかり頷いたら、こっちも一緒になって軽蔑されそうだよ」
そこで、「ほら、林檎さんがドン引きしてるぞ」と、こっちに振られた。
「ハイ。引きました。でもいつもの事です。セクハラです。はい最低」
岩槻部長は、豪快に噴き出して、「林檎さんと仲良くやれよ」やれやれと休憩室を出て行った。仲良くやれ、とか言われたせいなのか何なのか、さすがの毒舌も人見知りするみたいに目が泳いでいる。意外というのか……上杉部長との仲をイジられた時、あたしは不思議とそれを自然に聞き流していた。自分の中ではっきり形にした途端、気持ちが楽になる。こんな事ってあるんだろうか。
ところで。
「企画書、どうなってる」
ほい来た。
「はいっ。まだまだ考え中ですっ」
「それで、何でおまえは笑っていられるのか。マジで頭腐ってんのか」
気にしてくれた。それだけでもう嬉しくて笑顔が隠せない。たまに思うんだけど、上杉部長も、実はあたしと種類の違う後輩ヤリマンじゃないかな。(男の場合はヤリチンか?)
「1度、持ってこい。途中のままでもいいから」
急に、別の時間軸が回りだしたように感じた。
「はい。よろしくお願いしますっ」
敬礼っ!
そこからデスクに直行。自分の考えた企画を取り出してみた。こないだ宇佐美くんと見せ合ってから、随分時間が経っている。宇佐美くんとは、お互いにテーマだけは同じ方向で一致していた。決まっているのは、それだけ。……ヤバい。
宇佐美くんはどれぐらい仕上げているだろうか。
とにかく1度突き合わせてみようと、彼の携帯にメールする。
林檎姫より。
〝ウサギ、集合〟
自分で言ってておかしくなるほど声が震えた。思わず口元を片手で押さえたら、その手も震える。それを押さえようとしてもう片方を重ねても同じだった。
上杉部長は一言も発しない。やがて、根負けしたのか久保田の方からその場を立ち去った。まるで怒りのやり場をぶつけるみたいに靴音を立てて階段を降りて行く。吹き込んだ書類が階段を伝わって下に流れた。久保田が踏んだ跡まで付いて、メガネも転がったままで……そこで部長と目が合った。やっぱり何も喋らない。その瞳の奥で、あたしの何かを疑っているように思えた。本気で怒るとこういう顔になる。自分が悪い訳でもないのに「すみません」と謝った。
すぐに書類を拾おうとして、なのに手が震えて止まらない。両手をぎゅっと握り固めたその時、部長の手がスッと伸びて、あたしの両手に重なった。
武骨に掴まれた手を通じて、温かさが伝わって来る。凄く高価そうな腕時計だな。でも、それにも負けないくらい存在感のある大きな手だと思った。その腕時計の秒針をじっと眺めているうちに、次第に震えが収まって……どれほどの時間、そうしていただろう。部長の手は、そこから不意に離れて、今度はあたしの前髪を掻き分けた。覗きこんでくるその目は、もう怒ってはいない。
「頭、平気か」
許されたという安堵が、助けられた嬉しさも一緒になって身体中を回る。その温かい指先で額を探られているうちに、やっと、自然に涙が溢れてきた。全てが洗い流されて……この人、最高に格好いいな……そんな事を考える余裕まで出てくる。それが思いっきり顔に出ていたらしい。妙な反応だと疑われたのか、
「別に、おまえの脳ミソを疑った訳じゃない」
よく考えたらそうとも取れると、泣きながらも、ちょっとだけ笑ってしまった。
部長は、一瞬で眉間にシワを寄せて、
「そうやって適当にヘラヘラしてるから、この位ならイケると勘違いされて、男につけ込まれる」
小さな期待がぷちんと弾けた。
「おまえはスカスカなんだよ。まともな彼氏が欲しいなら余計な隙を見せるな」
こっちは被害者なのに、毒舌でボコボコ。それでも、自分がフリーだという事が部長に認識された事が純粋に嬉しかった。説教されたにも関わらず、相変わらず泣きながらニコニコしていたら、
「襲われかけたくせに風呂上がりみたいな顔して。どういう頭のエラーだ」
部長はそこでメガネを掛けて、そこから1度外して、割れたかどうか確かめてから、また掛けた。それを見てまた笑ってしまったら「まさか、ラリってんのか」
仕込んでいると疑われて、その証拠を確かめようと部長が近付いてくる。
「の、飲んでませんからっ」思わず、部長の胸元をドン!と本気で弾いてしまった。そこまでの接近に、今はあたしが耐えられないんです。
「それだけ元気ならよかった」
部長はやっと笑ってくれて……この笑顔が、ずるい。ここで飛びついたら、まるでさっきの久保田と同じだ。それでも2人で散らかった書類をまとめるうち、指先が触れたり、顔が近付いたりする度に、期待の風船が勝手にどんどん膨らむ。
あたし、この人が好きだ。
〝ここに、部長の事を男性として、真剣に意識しているあたしが居ます〟
言いたい。今言わなくていつ言うの。今でしょ。こっちが本気を伝えたら、彼女の存在、それを正直に話してもらえるんじゃないか。もうどんな事実でもいい。
そこに、誰かが下から階段を上がって来たかと思うと、おや?と顔を覗かせた。偶然、足元にあった書類を丁寧に拾って、「ほい」と手渡される。
岩槻部長だった。
「おいおい。何だ?お邪魔だったか」
「そうだな、手伝わない奴は邪魔だな。見て分からないかな」
「あんまりフィアンセを苛めるなよ。おまえ本当にフラれるぞ」
泣いた事が一目瞭然なのかと、あたしは急いで無造作に顔を拭った。
「苛める訳ないだろ。可愛い林檎は、俺が塩水にどっぷり漬け込んで丸ごと喰ってやる。誰と結婚しても仕事を続ける気なら容赦しない。泥沼になって破局するまでコキ使ってやるからな」
それを世間では〝苛める〟と言うのです。それより何より〝可愛い林檎〟とか初めて言われた。そっちの方が気になって気になって……毒舌が妙に嬉しいというのも、おかしい。あたしいつの間にかドM体質になってるのかな。
「おいおい。それは結婚相手が居なくて、ひがんでるとしか聞こえないぞ」
これほど親しい岩槻部長にすら、彼女の存在を言っていない事が分かった。場所を階段からフロアの休憩室に移して、そこから2人の小難しい話題が花開く。
過酷なクライシス実習、サバイバル研修、ブラック研修……そこから話題がいつかの女性誌の広告に移り、やっとあたしでも分かる世間話だと思ったら、
「付録でブレイクした雑誌の編集が、ライバルは他の雑誌ではなく、世の中の娯楽の全てだと言ってたなぁ。人が貴重な時間を投げ打って没頭する物、その全てがライバルらしい」
これは、うちの会社にも言えるな、と岩槻部長は遠い目をした。
中でもスマホは強敵だな、と上杉部長もそれに並んで、
「ジムだの英会話だの、同じ事ばっかりやってる奴らを叩き起こさなきゃ。研修なんか見向きもしない奴らに爆弾ぐらいは落としてやらないと」
上杉部長はそこで言葉を切って、殊更、真剣に悩んで見せたと思ったら、
「こっちが営業しなくても、アソコから涎垂らして向こうから来ないかな」
岩槻部長は呆れたように溜め息をついた。
「おいおい。おまえは相変わらず言葉が汚ない。よくそれで人が集まるな。うっかり頷いたら、こっちも一緒になって軽蔑されそうだよ」
そこで、「ほら、林檎さんがドン引きしてるぞ」と、こっちに振られた。
「ハイ。引きました。でもいつもの事です。セクハラです。はい最低」
岩槻部長は、豪快に噴き出して、「林檎さんと仲良くやれよ」やれやれと休憩室を出て行った。仲良くやれ、とか言われたせいなのか何なのか、さすがの毒舌も人見知りするみたいに目が泳いでいる。意外というのか……上杉部長との仲をイジられた時、あたしは不思議とそれを自然に聞き流していた。自分の中ではっきり形にした途端、気持ちが楽になる。こんな事ってあるんだろうか。
ところで。
「企画書、どうなってる」
ほい来た。
「はいっ。まだまだ考え中ですっ」
「それで、何でおまえは笑っていられるのか。マジで頭腐ってんのか」
気にしてくれた。それだけでもう嬉しくて笑顔が隠せない。たまに思うんだけど、上杉部長も、実はあたしと種類の違う後輩ヤリマンじゃないかな。(男の場合はヤリチンか?)
「1度、持ってこい。途中のままでもいいから」
急に、別の時間軸が回りだしたように感じた。
「はい。よろしくお願いしますっ」
敬礼っ!
そこからデスクに直行。自分の考えた企画を取り出してみた。こないだ宇佐美くんと見せ合ってから、随分時間が経っている。宇佐美くんとは、お互いにテーマだけは同じ方向で一致していた。決まっているのは、それだけ。……ヤバい。
宇佐美くんはどれぐらい仕上げているだろうか。
とにかく1度突き合わせてみようと、彼の携帯にメールする。
林檎姫より。
〝ウサギ、集合〟