いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
「ずるい。ずるいなぁ、部長は」
「何が」
「いえいえ。じゃ、あたしも」とスマホを取り出した。
「掛けてみていいですか」と訊いたら、彼が頷く。粟立つ気持ちに体が追い付かないのか、妙に手元が震えてしまった。呼び出し音が始まっても、なかなか彼の携帯に響かない。この時差がもどかしいな。やがて繋がったと思ったら、
『えっと、こっちは鈴木ですけど。誰ですか?』
「あ……」
何かの間違いじゃないか。あたしは上杉部長を見上げた。
「プレゼンは鈴木がコツを掴んでるから、教わるといい」
まるで他所の国の言葉を聞いているみたいだと思った。
「俺が知ってる中では1番まともな男だ。さっきみたいに仲良くやれ」
爆弾を落としたくなるのは、こういう時なんだろう。左手のスマホは今も小さく揺れていた。震えが、また別の意識から飛んできている。ファイルを抱えた右手にも、ぎゅっと力を込めた。
1分待って、深呼吸。それでも震えが収まらない。
「鈴木くん、あのさ、今から飲みに行こ」
電話の向こうでは『はい?はい?』と鈴木くんが慌てている。
あたしは部長を真正面からじっと見据えた。
「あたし、フラれたみたい。今日はとにかく飲みたい気分なの」
『はい?え?え?』鈴木くんはずっと混乱中だ。
「毒メガネの鈍感あるある。朝までとことん聞いてくれるかな!」
携帯をブチ切った。「これ返します」黄色いメモを部長のネクタイに押し付けた。ノブに手を掛けたら、何故かいつも以上にドアが重く感じる。意地になってノブを引いているのにビクともしない。見るとドアは遥か上で押さえられていた。
「ちょっと、イジり過ぎた」
頭上から落ち着き払った声が降りてくる。もう顔を直視できない。今日から毎日、地獄的だ。そのまま、あたしはドアに額を貼り付けたまま、部長には背中を向けたまま、ファイルをぎゅっと胸に抱き締めた。
「部長は、素直にごめんって言えないんでしょうか」
「言えない。だから全部、林檎から言ってくれ」
ずるいっ。
振りかえったその瞬間に、一瞬で唇を奪われた。同時にファイルが足元に落下する。思わず顎を引いたら、首筋に彼の手が伸びて来た。見上げても、俯いても、彼の手が、唇が、ずっと追い掛けてくる。鉄の扉で背中が冷たい。なのに彼と重なる胸元だけは温度をどんどん上げていった。
離れて、重ねて、それを何度も何度も繰り返した。3回までは憶えているけれど、そこから何回キスしたか、もう思い出せない。まるで28年分をここで一気に取り戻すみたいだと思った。息苦しいのは、息継ぎが出来なくて吸ってばかりいるからだ。そんな息継ぎの合間に、まるで自分が自分じゃないみたいな甘い吐息が漏れて……急に恥ずかしくなって下を向いたら、まるで慰められるみたいに、上から彼の唇が首筋をなぞる。もう普通に立っていられない。まるで倒れこむように、自分から彼の胸に飛び込んだ。
彼は何も言葉を発しない。それでも、その胸から伝わる鼓動の速さ、髪の毛を撫でる指先の逡巡、動きの1つ1つから隠れた真心が真っ直ぐ伝わってくる。
「わたしも好きです」
今だけ、誰も来ないで。
遥か上では、階段を誰かが移動する音がした。次第にそれは聞こえなくなる。階下では金属がぶつかる音がずっとしていて、何かの作業中かもしれない。誰かが階段に出たり、あるいはフロアに出たり、ドアの開閉音は何度もあった。どれほどの間、そうしていただろう。
「あの」
微動だにしない彼の実態を確かめるみたいに、あたしは自分から口を割った。
「ここまで来て、まだ呪いが必要なのか」
さすがというか、あたしと違って声に余裕を感じる。その胸に顔を埋めたまま、
「1度はっきり訊こうと思ってたんですけど、部長は、彼女とか居ますか」
「そういう女は居ない」
これを信じなくてどれを信じるのか。
「だったらこっちも言うけど」と来られて、まさか渡部くん?鈴木くん?どっちを踏み込んで来られるかとドキドキしていると、
「こういう時に、その〝部長〟は止めろよ」
訳ありの2人が、会社で後ろ暗い事を企んでるみたいだから……らしい。
あたしは夢中で見ていたドラマの激甘オフィスラブを思い描いて好い気になっていたので、ここで少々夢から醒める。不意に、その指先で唇をなぞられたら、まるで名前で呼べと命令されているように感じて、「は……」
「〝ハルヒコサン〟」
何で、かたこと。自分で言ってて、引く。
「すみません。競走馬みたいな発音で。普通に言えるよう練習しておきます」
彼はもう我慢できないとばかりに、そこで吹き出した。アホ毛に彼の息が掛かってくすぐったいと思っていたけど、名前のくだりから、ずっと笑っていたらしい。そこで初めて腕を離れた。照れ臭いのも手伝って、思わずムキになる。
「そうやって笑いますけど、そんなすぐに名前でなんか呼べませんっ」
「呼べるだろ、普通に。まゆ。まゆ。まゆ」
繰り返されるその度に、何故かあたしの方が居たたまれなくなる。何のプレイ?
「どうもしっくり来ない。林檎は林檎だな。おまえは林檎でいいだろ」
ずるいっ!
「下の名前は、日銀総裁のお蔭でやっと市民権を得た。親しいヤツらは、ハルって呼ぶけど」と、訊かれもしないのに、そう教えてくれたけど……何だかどんどんハードルが上がる気がする。何か、ずるい。
そこで、いつかの前髪下ろした無邪気な面差しが浮かんだ。あれなら、あたしも〝ハル〟って自然に呼べる気がする。もっと後輩側に寄せて来てもらえたら、そこからはあたしの得意領域だ。後輩ヤリマンの本領発揮します。
「上杉くん」とか。「なんか自然で良くないですか。こういう呼び方も」
「何の真似だ」
途端に、部長は不機嫌になった。まさか、あたしまた地雷を踏んだ?
「それで上司にでもなったつもりか。俺はプライベートで脳内疑似恋愛するつもりはない。どういう恋愛教育を受けてるんだかしらないが、妄想は単なるオナニーだ。現実見ろ」
急に意識が遠ざかる。さっきまでの甘い時間はどこ?しばらくは声も出ない。
部長はフロアに出ようとした所で振り返り、「実は、しばらく会えない」
明日から福岡へ出張だと言う。透明の厚い壁がドンと差し込んで来て、急にその姿が遠くなったような。飛行機が墜落したらどうしよう……妄想が飛び過ぎる。
「プレゼンには戻って来るから」
そこから距離がぐっと近付いたと思うと、今までで1番、優しいキスが降りた。
彼氏居ない歴28年。お付き合いはやっとスタートラインに就いたばかり。
しばらくは〝ハルヒコサン〟次第である。
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