いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
最強の失敗作。
結果。
今日も暑い。朝日が痛いくらい眩しい。まるっと、二日酔い。
あれから会社に向かい、真っ暗な社屋にメンチ切って素通り、近くのビジネスホテルで一夜を明かして、これからよれよれの服のままで出勤……と推測する。
ゆうべ何を言って何をしたか、まるで憶えていない。ベッドの隣に誰もいない事が奇跡かもしれない。そんな体たらくをした上、コンビニで朝から日本酒をグイっとやってしまった。アル中一直線、女は堕落の一途を辿っている。
〝林檎さん、次々と男にフラれて酒浸り。ついにヤサぐれました〟
そんなトピックが盛り上がっても驚かない。酒浸りは事実だ。早朝ぐいっとやっただけには飽き足らず、今もバッグにはコンビニで余分に買ったカップ酒が1本入っている。ガソリンが切れたら補充が必要。正直、素面で出社する勇気が無かった。どんよりと会社のエントランスをくぐる。
今日の参加者が続々とビルに吸い込まれていく中、これだけ挙動不審なのに、あたしは警備員にさえ無視された。ぼんやりした世界の中、出た。出ました。またまたエレベーター前に、久保田が居る。朝一番、先手必勝、
「はろぉー、同僚殺し」
おぉ、朝から言葉のチョイスが冴えているっ。さすが定番、カップ酒。
久保田は困惑する周囲に気を取られながら、「人聞きの悪い事いうな。一般人も居るだろがよ。何だ?酒臭っせーな」と朝から食って掛かって来やがった。
「だって事実でしょ。企画を返せとは言わないけど、あの子に謝ってよ」
タメ口、上等!元ヤンの血筋が、こういう時に役に立つ。ママの娘でよかった。
騒ぎを聞いて立ち止まった人が溜まり始めて、身の置き所が無くなったのか、久保田はぷいと行ってしまう。幸先、悪い。今日もやっぱり行くのやめようかな。
エレベータホールを避けて階段へ……これは自虐的だと、またエレベーター前に戻ってくる。そこから、どうすればいいか迷いに迷って、受付横のロビーで途方に暮れていた。
そこに、彼が現れる。
クールビズを意識した涼しげな色のワイシャツ、体中から漂う緊張感、それだけで周囲の温度を1度も2度も下げる気がした。珍しくエレベーターから降り立ち、まるでこれから外の熱気に殴り込むみたいにネクタイを緩めている。周囲が羨望と、少々の畏怖の眼差しでもって見送るのを自然と受け止め、ロビーのド真ん中、着信を知らせるスマホを無視したまま、彼は無言で近付いてくる。
目が合った。
あたし、ちゃんと来ました。見れば分かる。
「酔ってんのか」
ゆうべの名残りと朝酒のパワーは誤魔化せない。というか、元から誤魔化そうと考えていなかった。ガチンコ。
「それで堂々とやってこられるとは、会社も舐められたもんだな」
「はいはい。すみません。出直します」
きっかけ、ありがとう。逆ギレで帰ってやれと思ったそこに、鈴木くんが資料まみれ、汗まみれで外から飛び込んできた。
「良かったぁ。林檎さん、今日ちょっと大変な案件があるんですよ!」
のび太は一体何時から働かされているのか。「急いで下さいっ」とその勢いに押され、勝手にIDカードを操られてオフィスに雪崩れ込んだけど……何事も無かったみたいにデスクにつくけど……気持ちの切り替えが、全然出来ていない。
とりあえず、給湯室で歯を磨いた。参加者の前に酒の匂いをぷんぷんさせて出て行くわけにもいかないし。とりあえず、上には紺色のカーディガンを羽織る。これが通年、置きっぱなしで役に立つのだ。ヘビロテ。
いつかのように勝手に、自動的に流れる毎日の始まりだった。それだけの事だ。
資料の1部を修正して、上の階に届けるように頼まれたけど……こんなの、鈴木くんがちゃっちゃと直せばいいじゃん。また妙な気を使われたのかな。それが鬱陶しいと釘を差すことすら、今は鬱陶しい。
さっき……鈴木くんに引っ張られて会社に吸い込まれていくあたしの姿を、彼は無言という形で見送った。彼は、あれからどこに向かったのか。講座前、今日は気分を変えて外で一服なのか。どこに行っても暑いというのに……そこで、あたしは大きな欠伸をした。休み過ぎて頭が働かない。キーを打つ手が、まるで頭の命令とズレているような感覚を覚えた。いやもう単純に朝酒のせいでしょー。
「林檎さん、わざわざすみません」
平謝りの鈴木くんに歓迎されて、訪れた上階の会場は、上下真っ黒のスーツにがっちり身を包んだ男性ばかりで埋め尽くされている。
「いくらエアコンが効いているからって」と思わず呟いたら、責め立てるような視線が、あたしに向けて一気に集中した。思わず、ほろ酔いもスッ飛ぶ。
目つきが怖い。何て言うか、キツい。ただ資料を配るだけなのに入り口で足がすくんでしまう。「これ、どういう……」
参加所の男性は、20代から、かなりの年配まで様々だった。喫煙室はあっという間に煙だらけ。喫煙室に入りきらない参加者の何人かは、通路にまではみ出している。他は窓から外を見ているフリで、それぞれ携帯で誰かと話していた。
「自宅を処分する以外に何の方法も無ぇんだよ。おまえの責任で説得しろって。え?それは親父さん名義なんだから、奥さんに移したら贈与になんだろがよ。税務署?とにかく知らねーよって言い張るんだって、家族を洗脳しろ」
税理士か弁護士か。
ちょっと小耳に挟んだだけでも追い詰められている様子が窺える。時間が告げられると、黒い人だかりが、どんどん研修室に吸いこまれて……およそ50人。
鈴木くんは、辺りを窺いながら、「相続で家族から訴えられたり、無謀なクレーム対応に困っている方ばかりで。ちょっと独特でしょ」
〝顧客を納得させる法律知識と実践~理解と承認〟
タイトルが地味。それも頷ける。この講義では、少しの遊び心も許されないのだ。資料を配って回る間、どの参加者もこちらを一瞥もしない。まず目を合わせてくれない。溜め息されるか、無視されるか。「お隣りへお願い致します」と、手の届かない場所に書類を渡すように促したら、舌打ちされた。……彼は、こういう場に独りで立つのだ。ハゲるのも頷ける。そこから、まるで1人1人にお守りを渡すみたいに、あたしは丁寧に配って回った。ふと、「あの、本の即売会とかは無いんですか。サインとか貰えます?」と参加者から訊ねられる。
「本?」
横から鈴木くんが飛んできて、
「それは発売が来月に延期になりまして。サイン会は行う方向で調整中です」
すこん、と魂が抜けるほどの衝撃があった。
「サイン会は、これから出版社とスリ合わせるんです。都合がつかなくて無理そうで。部長が僕に代理でやれって……そういう訳にもいきませんよね?」
あたしは上手く笑えたか。
どんどん差を付けられていく。取り繕った笑顔で資料を配りながらも涙が滲んだ。彼の姿が、あたしにはもう見えなくなってるんじゃないか。
そこに宇佐美くんが現れた。「どうしたの?」
忘れ物でも届けに来たかと思ったら、
「なんか、ここで前戯やれっていきなり言われちゃいまして」
「ぜんぎ?」
「それはあの人の好きなセクハラの前フリで。あれ、プレゼンの事ですよ」
「プレゼン?」
訊けば、発表するはずだった企画を、前説代わりにこの場でプレゼンするように、上杉部長から言われたと言う。「あの参加者の前でプレゼンって……」求められてもいないのに?内部の企画会議とは違うんだよ?あたしでも足がすくむ。
「朝からカフェで脅されちゃったんで、仕方なく来たっす」
外で一服じゃなかったのか。「いくら部長に脅されたからって、大丈夫?」
「納得いかないっす。まるで僕が林檎先輩を怨んでるみたいに思われて」
どういう事かと訊くと、
〝林檎にも自分にも、過度な期待はするな。おまえは派手に顰蹙浴びてコケろ〟
「期待っていうか、僕は一応、林檎先輩は信じてるっすよ?だから今朝みたいに、久保田さんとガチンコとか、そんな派手な事止めて下さいって。もっと楽しい事で派手にやりましょーよ」
うわ。見られていたのか。
「面倒くさいけど、行ってきますね」
「緊張しないの?」
こっちが君の分まで派手に緊張してくる。もう手が震えてるし。
「ヤベぇな、とは思いますけど。うっわ、きっつい人ばっかり。女居ねぇし」
それだけ?
さすが、ゆとり。ヤべぇとは言っても、怖いとは言わない宇佐美くんがやけに頼もしく見える。あのオドオドしていた宇佐美くんが着実に成長している姿を見ていたら、急に込み上げてきた。
「うん。どんな大怪我でもして。あたしで良かったらここに居るから。何でもオゴる。もう好きなだけコケろ」
宇佐美くんは、照れ臭そうに頭を掻いている。
その時、通路の向こうから上杉部長が現れた。さっきの涼しい装いから一変、参加者にも負けない折り目正しいスーツ・スタイルが、痺れるほどキマっている。隙の無い装いは、スタッフの間にも緊張感を伝えた。目が合って、思わず一礼。
〝よろしく〟
すれ違う時、聞こえた気はしたけど、彼が言ったか言わないか、本当の所は分からない。会場に入ってすぐ、「これはうちの新人1年目です」という彼の簡単な紹介で、宇佐美くんは壇上に立った。
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