いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
後輩を送りだして時計を見たら、お昼前。
「うりゃ」と、あたしは重い腰を上げた。途中で化粧室に立ち寄り、ここで舌先に、ちくっと仕込む。微かに甘みを感じるフレーバーは、まるでお花のよう。
そして、別の営業部に用事というついでを装って、噂の第5営業部を偵察に向かった。5階フロアの作りは4階とほぼ同じである。ただ研修室は無い。通路を挟んで右も左も、全てが営業ワールド一色だった。
通路のキャビネットに隠れながら恐る恐る第5の様子を窺っていると、デスク上には書類やファイルが所狭しと積み上げられているものの、当の上杉東彦は部長席に不在である。それが確実になるや否や、もう堂々と!胸を張って進入した。
そこに鈴木という男性社員が慌ててやってくる。「林檎さん、どうも」
「新人ん時、お世話になりました。渡部のヤツ、元気ですか」とか言ってる事から察するに、この子が渡部くんと同期の子だろう。ほんのり覚えているけれど……あの頃はどちらかというと大人しいイメージだったように思う。
IDカードには〝鈴木祐真〟とあった。
ムダに愛嬌を振り撒く渡部くんの方が目立ってしまうせいで、彼の存在は〝鈴木〟という名のもとにその他大勢に括られてしまいがち。だけど今は……髪型は額を出したせいなのか、何処となく大人っぽいニュアンスが加わっている。声はそれほど大きくないのに、ぴんとした張りを感じて、はっきりと伝わってきた。
この何年かで、ちゃんと成長したんだな……ますます我が身が狭くなる。その鈴木くんから、「ささ」と恭しく椅子を出された。渡部くんから、ろくでもない洗脳を受けているとしか思えない。
「いやお客さんじゃないから、いいんだって。やって、仕事」
これだから後輩ヤリマンとか言われてしまうんだ。
「まさか、ジャイアンに御用ですか」
「ジャイアン?」
「あ、やばい」
鈴木くんは、「うちのボスです」と、恥ずかしそうに頭を掻いた。
なるほど。上杉東彦は陰でそう呼ばれているのか。林檎のパワハラ・データファイルに刻んでおこう。
「どういったご用件でしょうか。一応、教えて下さい」って、鈴木くんが急にかしこまるもんだから、「いや別に何も。ちょっと立ち寄っただけですので」ついこっちも改まって、後輩相手にぺこぺこと他人行儀が止まらなくなった。
「部署出来てから初めて来たけど、第5って……」
ここで日頃の語彙力が試される。ごくん、と息を呑んだ。
「かなりコンパクトだね」
切ないほどに、その隣の第4とは圧倒的に規模が小さい。出来たばかりだから、という事はあるかもしれないけど。
そこで鈴木くんが唐突に、
「林檎さん、新宿周辺でどこか良いホテル知りませんか」
「はい?彼女と?」
「あ、いえ」
鈴木くんは恥ずかしそうに笑って、「別の案件でゲストをお迎えするんです。そんなに高くなくて良いんですけど。いつも同じ所ばっかりだから」
この場合、ゲストというのは、こちらが依頼して研修をお願いする外部講師の事だろう。
「たまには違う所かぁ」
そこら周辺、老舗ホテルは多々あるけれど……最近リニューアルしたとか、別館が建設中とか、ビュッフェが好評とか、芸能人がよく使ってるとか、鈴木くんとはホテル事情のそんな他愛もない話でしばらく盛り上がった。
こうやって……何でもない世間話をひけらかしながら、あたしは探るようにそこら中を眺める。第5営業部にはこの時間、鈴木くんを入れて3人だけ。他は外回りなのか、がらんとしていた。男性社員の1人は、まるであたしの存在なんか見えないみたいにキーを打つ手が止まらない。たまに片手で器用にお菓子を回していたりなど、どこでも見られるオフィスの1風景であった。
部長デスク以外、ファイルも何も小綺麗に整頓されているなぁと思ったら、去年見送った新人くんがそこら中を掃除していて、お菓子を配り、配られ、掃除して、お礼を言われ、何事も無く平和に作業が流れていた。
お隣の第4は電話が鳴りっぱなしだ。それを誰が取るのかと争いが起きている。これは営業部ではお馴染みの光景だが、ここ第5は妙に落ち着いていた。
というのも、電話が鳴ると新人ではなく、鈴木くんが真っ先に取る。また鳴ると、また鈴木くんが取る。これがここの決まり事かと思っていたら、その合間合間に、「あ、いいよ」と男性社員がキーを打つ手を止めて次の電話を取り、「こっちは僕が」と新人が掃除の手を止めて、鈴木くんの作業のフォローに走った。
チームワークが抜群すぎて、神。ケチの付け所が見つからない。
あたしは電話中の鈴木くんに目で合図して、静かにその営業部を後にした。
ある意味、非の打ちどころの無い職場のような……いやいや、ひとたびジャイアンが現れたら戦場と化すのかもしれない。
5階だというのに、また久保田がエレベーター前に居る。3秒睨み合い、やっぱり避けて階段を行く事にした。ここに来ると嫌でも思い出す。またあの男が現れるんじゃないか。嫌な予感に追い立てられるように、小走りに駆け降りた。
デスクに戻ったら渡部くんが「来てますよぉ。あっち」と嬉しそうに指をさす。
……ここに居たのか。
性懲りもなくあの上杉東彦がまた来ているらしい。「あっがるぅ」きゃっきゃ、と渡部くんの声が異様に弾んでいて、「おまえは女子か?熱量、変だよ」
聞けば、今ちょうど女の子がアタックしているらしい。「マジで?」そういう事なら呼んでくれ。内線でも国際電話でも。給湯室で2人分のコーヒーを確保すると、まるで映画館デートみたいに2人で喫煙室のスクリーンに釘付けになった。
今度の女の子は、うちの社員では無い。胸の名札カードは研修参加者の物だ。その身なりは上下黒のスーツ姿で真面目そうな雰囲気が漂う。今までとは違う。
「君で5人目だ。一体、俺のどこが良くてやって来るの」
うっわー。
さっそく出た。出ました。今日も天狗発言が止まらない。「良かったら聞かせてくれ」と壁ドンしそうな勢いで女の子に迫っている。メガネの奥で、それを本気で知りたいみたいな目をしていた。「てゆうか、あたしも聞きたい」「僕も」
これは面白いと2人揃って耳を澄ました。
「それは……真面目そうというか。優しそうにも見えて」
どれも違ってるよ~、引き返すなら今だよ~、あたしは心の中で突っ込んだ。
「それだけ?」と、彼は呆れたように溜め息をつく。
それだけで十分ぢゃないか!って、もう突っ込み所が満載だ。
「真面目とか優しいとか、君はそれだけで相手を決めるの」
「そんな、出会ったばかりでそんな沢山は浮かびません」
頑張れっ。
負けるなっ。
この際ハッタリでも何でもカマして、やりこめろ。いつの間にか、あたしはコーヒーを渡部くんに押し付け、両手握り拳で彼女にエールを送っていた。
「確かに、私には知らない事がたくさんあります。それを、これから時間を掛けて知っていけば良いんじゃないでしょうか。これをきっかけに、そこから仲良くなっていけばいいと思います」
あたしは天に向かって親指を突きだした。
このコ、中々やるな。女の子も可愛いだけではダメだ。頭良くないと。
だが上杉東彦は、「本当に相性が良ければ、自動的に仲良くなると思うけど。先週からもう5日間も居合わせてるんだし」と落ち着きはらって煙をくゆらせる。
女の子が何を言っても、そこからは無視を決め込んだ。女の子は煙草の煙に巻かれながら、呆然と喫煙室を出てくる。まるで功労者をお見送りするみたいに、あたしと渡部くんは思わず姿勢を正した。
「聞いてました?」
渡部くんが、「はい」と頷く。あたしも頷いた。
「これってやっぱり、私ってフラれたんでしょうか」
「その通り」
まともに答えた渡部くんを叩き潰して、あたしはその女の子を手招きで給湯室に誘いこんだ。
「正直、どうアタックしても見込み無いと思います。ていうか、あの人会社でもヤベぇ奴なんですよ。辞めた方がいいですって」
そこから、その子はまるでケジメでも付けるみたいに、また煙の中に突入して行った。渡部くんと共に、再び喫煙室のドアに貼り付いて様子を窺っていると、
「望みが無い様なので上杉さんの事は諦める事にします。申し訳ございません」
上杉東彦は顔色一つ変えず、
「弱気で中途半端だ。俺にスリ寄るのは、そんなのばっかりだな」
「そんな事を言ったって……」
そこで急にドアが開いたと思ったら、「どうしたらいいですか?こういう時」
女の子が、その先を振って来る。
「え?あ……」
上杉東彦と目が合った。
そこで彼はメガネを外す。初めて目の当たりにする素の目ヂカラに、あたしは少々言葉を失った。そこから思いがけず時間を忘れて見入ってしまって……イケてるという事実は、もうそれだけでアドバンテージを奪ってしまうんだと、それを確実にした。
「君は自分で答えが出せないのか。どこの会社かしらないけど、がっかりだな」
人事課長が……そしてメガネを掛けた。
とうとう女の子は泣き出してしまい、そのまま喫煙室を飛び出して行く。気が付いたら、いつの間にか渡部くんまで一緒に消えて……あいつ、逃げやがったな。
上杉東彦を見ると、こちらに半分背中を向けて、何事も無かったように煙草に夢中だった。あたしはそこでポケットから小瓶を取り出し、その場でちくっと。だがここは、ちくっとではパワーが足りない気がすると、残りを全部ぐいっと煽った。この喉から鼻に抜ける熱気が堪らない。空の小瓶をぎゅっと握りしめる。
「あの」
「嫌だ。断る。一本吸ったら戻るから、もう邪魔しないでくれ」
「いえ、そうではなくて」
天狗も大概にしろと言いたい所だが。
「セクハラ。パワハラ。社内であなたは噂になってます。ご存じですか」
「噂?誰が。うちの?さっきみたいなクソ女か」
そこで彼はこちらを向いた。整った顔立ちがどうこうと言うより……クソ?
この界隈で1番馴染みの無い単語に、一時、頭の判断機能がショートする。
「と、当事者は知りませんけど」と、うろたえながらも、
「周囲のそこら中から上がって来てます。そのうち上にも届くかもしれません」
あくまでも上杉東彦の事を思って忠告している、つもりだった。
「君はそんな噂を真に受けてブチ込んできた訳か」
痛い所をさっそく突かれた。被害者本人が不在というバカバカしい限り。
「で、ですから普段の言動とか、今から気を付けた方がいいですよって言う……これはあくまでも忠告です」
不意に彼の手がこっちの胸元まで伸びてきた。「嫌っ!」その手を払ったら、「勘違いすんな」と、その下、あたしのIDカードを指先でツマむ。
「林檎まゆ。クリエイター」そこまで読んでカードをぴんと弾くと、
「どっちが背中なのか分かんないクセに自意識過剰。下らない事言ってる暇があったらクリエイターらしく、おっぱいぐらい造り込んでから会社に来い」
これはあくまでも忠告です……と来られて思わずカッときた。
「レッドカード!それがセクハラです!いくら業績好いからって、そんな態度だと会社にも居られなくなりますよ」
「林檎とかいう、そこの女」
そこで上杉東彦の目ヂカラが一層強くなった。
「おまえは俺に喰われに来たのか。それとも脅迫しに来たのか」
メンチ切られてる。
ガンを飛ばされている。
こうなったら後には引けない気がする。舌先の痺れがまだ残っているうちに、このスカした顔に一撃喰らわせるというミッションが点灯した。
「あたしですか。あたしは呪いに来たんです」
そこで勢い、空になった小瓶を上杉東彦に投げつけた。
「おまえはもう2度と女に近寄るな!」
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