いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
渡部くんが横からスッと現れた。
「あれですよね?午後からのリーダー研修。僕行けます。ちょっと見てみたい気もするんで」
「だったら来い」と上杉部長に促されて、渡部くんはフロアを後にした。ゆっくりランチ行って下さいね……耳元にこっそりメッセージを残して。
男前っ!今までの色々、帳消しにしてあげるっ!
といってもガチでのんびりする訳にもいかないと、ダッシュ!コンビニで調達してきたベーグルサンドにかぶり付きながら、まず途中になっている作業を片付けた。食後のコーヒーを適当に流し込んで、速攻、最上階のフロアに向かう。
エレベーター前で、またまた久保田に遭遇、「元カレの渡部を人質に取られて災難だなぁ。慰めてやろうか?金払え」またまた嫌味を言われたけれど、こんなの上杉部長の毒舌に比べたらサルの寝言だ。
最上階に到着したら、入り口扉に鈴木くんが居て、「林檎さん、すみません。わざわざ」とテキストの残りをどーんと渡された。態度と言動の不一致が過ぎる。
次に台車を回してくると、「今日のテキストは最後に回収する事になってるんです。これに乗せますから」と言う。伝家宝刀というのか、そういう社外秘の内容もテキストにはたまに含まれる。あたしは持たされたテキストの残りを、その上に載せた。
「まさか上杉部長がこれに乗っかって退場、なんて愉快な事はないよね」
「面白い事言いますね」
「まとめてシュレッダーしてやらない?ペラッペラで出て来そう。ウケるぅ」
「やめて下さいって。思い出したらヤバいじゃないですか」とか言いながらもう笑ってるじゃん。鈴木くんも、相当、黒いもんが溜まってそうだ。
「渡部くん、ちゃんとやってる?大丈夫かな」
「普段なら僕がやる作業なんですけど、今日は渡部に任せてます。見た所」
そこで突然扉が開いたと思ったら、上杉部長が出てきた。思わず息を飲む。何を突っ込まれるかと構えたら、「林檎さん、このページだけ人数分コピーして下さい。講義が終わる頃でいいです。モノクロのままでいいので」って急に改まって来られて、「う、あ、はい」と、自動的に背筋が伸びた。……誰かと思った。
まるで、お客様扱いで丁寧な依頼を受けたみたいな気分になる。
鈴木くんから人数は100人分と聞いて、その数に少なからず驚いたけれど、すぐ横の小部屋でコピーを始めた時、開いたドアの隙間から上杉部長の声が聞こえてきて、その様子にさらに圧倒された。メンター。動機付け。コーチング。ES。CS……超難解すぎる。何を言っているのか分からない。
コピーを終えて、鈴木くんと一緒に恐る恐る会場に入ったら、その広さと人数に思わず溜め息が漏れた。普段は4つに区切られているフロアをブチ抜きで1つに使っている。これは我が社では集客力が伴う案件でないと出来ない事だ。見ると、渡部くんは壇上横で部長のアシスタントをしていて、その様子がもう必死過ぎて、冗談でもイジったりできそうにない。何より1番、想定外だったのは……。
「ビジネスにおける継続とは、単に同じ事を繰り返すという事ではありません」あなたが言ったように……いつもの毒舌はどこへやら、上杉部長は穏やかな笑顔で参加者に寄り添った。
「これは、より上を目指して改善を続ける事を言うのではないでしょうか」
そこから返り討ちに参加者に質問を浴びせて、答えを待ち受け、「うーん、惜しいです」と、殊更に困った様子を見せて周囲の笑いを誘う……あの人は誰?
「眠いですか。ちょっと1度立ちましょうか」
約100人が起立して、腕を首を、軽くストレッチする様子は圧巻だった。
「スポーツとかします?」と前列と何でもない会話が始まったと思ったら、
「最近、少々やんちゃな人に絡まれた事がありましてね。こっちが柔道黒帯だって嘘付いたらビビって逃げましたけど」
そこで笑いが起きた。あたしじゃないか。てゆうか黒帯って嘘だったのか。それでも、まくった袖口から覗いた腕に流れる筋肉ラインは、柔道じゃなくても何かやってると思って間違いない。そうでなければ、あそこまで張りのある体型を維持出来ないと思うし。
「何かを記憶したい時は、動きと一緒に覚えるといいですよ」
さっきのNLPですが……と、それに続けて、
「憶えておいて下さいね。色んな場面で出て来ますから役に立ちます」
あたしの脳裏には、学生時代にお世話になった先生の姿が自然と浮かんできた。
「ね、ジャイアンでしょ」と、鈴木くんが耳元で囁く。ジャイアンは暴君を言うと思っていたけど、「マイクを握ると人が変わるんです」と言う事らしい。
人事掌握術、これからのOJTの在り方……そんな単語をぼんやり聞いていると、ひとしきり頷いている鈴木くんですら遠い存在に思えてくる。
講義が終わった。
「さっきの参考資料をこちらでお配りしますので、前へ」
上杉部長の丁寧な誘導で程々に行列が出来た、と呑気に眺めていたら、「寝るな。殺すぞ」と、急に間近で上杉部長に凄まれて、慌てて予備のコピーを抱えた。ジャイアン、くるくる変わってくれちゃうし、何か調子狂うなぁ。
鈴木くんと一緒になって希望者には1部コピーを渡し、そこでアンケートも共に回収。そこから渡部くんに合流して後ろから会場の後始末に取り掛かって……ふと見ると、上杉部長の周りには殆ど女性で人だかりが出来ている。
「サイン下さい」とか「写真いいですか」とか「握手して下さい」とか、次々と頼まれて、「そういう事は会社で禁止されているので」と体よく断っていた。
「林檎先輩、そんなルールあるんすか」
「さぁ。あそこまでの人をまず知らないけど。握手くらい、いいじゃんね」
純粋にリスペクトだという参加者だって居ると思った。中には真剣に思いを寄せる女性も居るかもしれない。それだって普通に受け止めて喜んでおけばいい話。その可能性すら潰すというのも勿体ない話だ。それがちょっとエスカレートしたからって〝クソ女〟と呼ばれる筋合いは無い。
全てのお客様を見送って、後片付けを終えたらもう8時を回っていた。
渡部くんは「1つ残ってるんで」自分の仕事に戻ると言う。「今日はありがと。今度オゴるね」と言ったら、「いいっすよ。いつもの恩返しだから。オゴられたら、また返さなきゃ」いつもの愛嬌のある笑顔で手を振った。可愛い奴だな。
上杉部長は、到着したエレベーターから、きゃっきゃと弾ける3人組の女性社員を目ヂカラで追い出して、独り堂々と乗り込んだ。あたしは鈴木くんと並んでフロア側に立ち、部長と向き合い、そこで妙な間があったと思ったら、
「おまえにやる」
上着のポケットから封筒を取り出して渡された。これはいつかみたいな、また10万円級の?嬉しいと言うより、妙にザワつく。
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