いつも酔ってる林檎さんが、イケメン毒舌上司に呪いをかけるお話
2人で部長を見送った後、鈴木くんに横目で観察されながら封筒を開けたら、有名ホテルのペアチケット・ディナー券が出てきた。
「多分もらったんですよ。参加者から」
こういう事はよくあるらしい。ペアで1万5千円也。10万円の旅行券を先に見ていたせいか、それと比べたらパンチが足りない。
「なんだぁ」
その呟きを、鈴木くんは思いっきり誤解した。
「林檎さんって……そうだったんですか。すみません。気が付かなくて」
「こっちも気が付かなくてごめんね。何を謝ってるのか分かんない」
「ジャイアンの事、す」
「そこから先は浮かんでも言うなぁ」と、その胸元に片腕を突っ込んだ。それ気が付かなくて正解。「そんな訳無いって、見てたら分かるでしょ」
「では渡部とは?」
おまえは久保田か、と言いたいのを我慢して「無い無い無い」と繰り返した。
「それを言ったらあたしと鈴木くん、ある?」と詰め寄ったら、「無い無い無い」と繰り返された。渡部くんの可愛気には到底及ばないゾ。
「後始末は、お任せ下さい。林檎さんは、どうぞご自分の仕事へ」
思わず肩透かしを喰らった。オマエは部長か?コロッと変わって急にお堅い系で来られると、鈴木くんは気軽に誘える雰囲気とはまだまだ遠いな、と感じる。こっちがオゴってあげるどころか、ぼやぼやしてたら、こっちが鈴木くんにオゴられる立場になってしまうかも。
そこから後の事は鈴木くんに甘えて、自分の仕事の為にデスクに戻ってきた。
毒舌ジャイアンと講義中の大先生。あたしは上杉東彦2人説を唱えたい。
その2面性には驚いたけれど、あの壇上では意識的に切り替わるよう自分で操作している気がした。いつかみたいに思いがけず笑った時の、あの素の感じとは程遠い。彼の自然な姿は……そこで喫煙室での休憩の様子が思い浮かぶ。あれをナチュラルと言うなら地獄的だ。不健康だし、険悪だし、一服に癒されている感じでもないし。あれではハゲても文句は言えない。
そういうあたしは……デスク上の鏡を覗いたら、顎に1つニキビが出来ていた。いけない、と思いつつぷちっと潰すとコメドがぷにゅっと飛び出して一瞬の快感が……オカシイ。いつの間にか、ヤベぇ奴になってる。
1つ作業を終えて、その向こうでまだ頑張っている渡部くんを見守りつつ、ふと時計を見ると、午後9時。
帰る準備を始めたその時、スマホが鳴って、誰かと思ったら美穂だった。『今って手伝える?』と来て、あたしは荷物を抱えて美穂の所に向かう。
美穂の第1営業部は5階フロアの半分を占領している部署だ。同じフロアでも隅っこに小さく収まっている第5とはエラい違い。美穂は、そこから1つ上の会場で後始末をしていると言うので行ってみた。会場内はすっかり片付けが終わっているものの、通路だけが何体ものマネキンで埋まったまま。
〝イケてるエグゼクティブを目指せ!中堅社員のためのファッション講座〟
いつかの案件は少々名前を変えて開催されたらしい。様々なコーディネートを施されたマネキンの波の中からすいすいと美穂がやって来て、「ライブへようこそ」と、片手を上げた。
「で?踊ってるのは、美穂が独り?」
「まぁね」
これ以上、美穂に訊くのは拷問に等しい。みんな忙しいから。この後用事があるから。最近朝が早かったから……言い訳を勝手に思い浮かべながら、あたしは腕まくり、早速作業に入った。
美穂は向こうから、あたしはこっちから。マネキンから1つ1つ洋服を外して箱に分類。業者が取りに来る明日の朝までマネキンはそのまま立てておくという。
「スカートと違ってズボンは外すのに時間が掛かるなぁ」
「アクセは気を付けてね。無くすとヤバいから」
「高価いの?」
「かなり高価な物は外してある。今付いてるのは程々の物」
タイピン、カフスボタン、胸のチーフも外して歩く。まるでアパレル業界。
「うちの社章バッジはどうする?」
「いいよ。食べて」
「あざっす」
社名アルファベット〝P〟の1文字をあしらったブルー&ホワイトの丸い社章がそれである。同系色のスーツでは目立たないかもしれない。そこを考慮して、目立つようコーディネートされているというなら大したものだ。
あたしは思わず目の前のマネキンに抱き付いた。この硬さは、いつかの上杉部長とはまるで違う。当たり前と言うか、匂いも温度も感じない。
「あたし、これよりもうちょっと背の高い彼氏がいいなぁ。今日のデートは?」
「とうとうリアルを諦めたの?2次元を通り越してそれか」
「しばらくは、これでいいかも。うーん、あたしお洒落な居酒屋がいいなぁ~」
「そのしばらく、あと何年続ける気?茶番もいい加減にしたら?」
「なによぅ。美穂だって居ない歴そろそろ2年ぐらいになるでしょ」
「まさか飲んでないよね?今は」と疑われて、「飲んでないよ。今は」
美穂は、やれやれと言う顔で溜め息をついた。
「だから、飲んでないって」
そう言えば、上杉部長に雑用を頼まれるようになってから1度も飲んでいない。会社でちくっとやる勇気も無ければ、家飲みもしていなかった。毎日がハンパない疲労感で、夜はベッドに速攻飛び込んでしまう。これではニキビが出来るのも頷ける。今夜は美穂を誘って繰り出すかなぁ。あのペアチケット、使えるかな。今日は遅いから別の日にでも……ガラス越しに美穂の姿を映しながら、潰したニキビを指で転がしていたら、
「ネクタイだけはブランド別のボックスにね」
丁寧に、と美穂に釘を刺されて肩をすくめた。この後の事を考えて、今は大人しく従っておこう。
長い髪を後ろにしばり、遅れ毛を気にすることなく、美穂は作業に没頭していた。黙っていればモテる。いや、黙ってなくても適齢期の男性が放っとかない気がする。顔立ちは彫が深くてエキゾチックな、ちょっといい女風。それを自分でも分かっているのか、ビジネススーツのインナーは普段からシャープなカットソーでキメていた。同期から〝社長夫人〟って呼ばれて、入社当初からキレキレで。
ふと。
「渡部くんも呼ぼうか」
「もう呼んである。1つ終わったら来てくれるって」
こういう時に、普段の泊まり込みの借りを返してもらうのだ。ついでに、今日渡部くんに助けられてキュン死した話をした所、
「一度マジで訊こうと思ってたんだけど、まゆって渡部くんの事好きなの?」
「久保田がここにも居るゼ。それを美穂が訊く?見て分かんない?」
「へぇ。好きなんだぁ。一途だねぇ」
「そうか。おまえはやっぱり久保田だな。着ぐるみを脱げ」
確かにちょっとだけ渡部くんにマジキュンしたけど、あれはそういう意味じゃない。さらりと助け舟を出してくれて、そういう余裕を感じて感動したというだけの事だ。それを言えば、講義中の上杉部長にも少々キュンときた。〝先生〟と見れば、頼れる存在とも思える。優秀な人に対する嫉妬、それも否定しない。それよりあたしは一体、いつまで雑用係が続くのか。思わず溜め息を付いた時、ふと、外したシャツの袖口に、ぼんやりシミのような物を見つけた。
「これクリーニングとかしなくていいの?」
「いらないんだってさ」
またひとつ先を眺めながら、「これなんて、女子ウケ抜群じゃない?講師は誰だっけ?さすがカリスマ・コーディネーター」そこから次に並ぶマネキンの胸の辺りを撫でつつ、あたしは再び、その胸の中に思いっきり顔を埋めた。
「来ちゃったぁーん。飲みすぎたぁ~。今夜は泊めてぇ~ん」
彼氏の部屋に転がり込んだ女の妄想をフル回転させる。素面でこのノリ。酔ってたら、さらに現実と区別がつかなくなって、マネキンを連れて帰ってしまうかもしれない。このマネキンは、妙に好い匂いがする。ここまでリアルにコーディネートするのかと感心した。今やどの業界も3D4Dは当たり前かぁ。
その温かい胸元からは、定期的に振動が伝わって来た。この辺りから……さすがのあたしも何かがおかしいと気付き始める。マネキンはこんなに温かくない。IDカードも付けない。そしてマネキンは……見上げた時、メガネの奥からハ虫類のような眼力で睨みつけ、その眉をぴくりとも動かさず、「2度目だ。馴れ馴れしい。次は殺すぞ」と、脅したりなんかしない。
うわぁぁっ!
神出鬼没っ。上杉部長を押し退けたつもりが、こっちが弾かれて、あたしは本物のマネキンもろとも将棋倒しになってしまった。そこから自然と助け起こされたりなんかしたけれど、腕の力だけで軽々と操られているような錯覚も手伝って、動揺が止まらない。「す、す、すみませんっ」
「確かおまえはアップルという名の、薄っすいモバイルみたいな胸の女か」
それを聞いて、美穂がぷっと吹き出した。
「ちょっと、そこ笑うとこ?」
マネキンを起こしつつ「ごめんごめん」とか言いながら美穂はまだ笑っている。「お疲れさまです」と上杉部長に一礼して、「さすが今日も冴えてますね」と、オダてて、美穂はまた作業に戻った。上杉部長はとっくに何事も無かったようにコーディネートを興味深く眺めている。「よく出来てる」と頷いて見せていた。
「あたしは、こっちの方がいいと思います」
別のマネキンを指したら、部長はそのジャケット裏を確かめながら、
「どうせヤラしい事考えるなら誰でも同じだ。おまえはある意味正しい。いっその事俺じゃなくてマネキンと結婚しろ。少々相手が動かなくても女は平気だ」
1日の終わりに……酷い事を詳しく言われたらしい事は分かった。部長は、美穂にマネキンレンタルの値段を聞いて、「意外と高価いな」とか言ってるけど、そんな事どうでもいいでしょ!
適齢期女子代表として言われっ放しも納得できないと、あたしはムキになる。
「上杉部長は偏見の塊のようですが。結婚って、ヤラしいだけでしょうか」
「いや、そこに女の無料奉仕も付けよう」
恐らく、人類史上滅多にお目にかかれない最低発言じゃないだろうか。クズぶりが清々しかったのか、「ブレませんね。その姿勢」美穂は笑顔で受け止める。物は言い様か。思わず目を見張る。これも女子力の1つかもしれないけど。
「あの、何ですか。もう研修は終わったじゃないですか」
「終わった。後は」部長に最後まで言わせず、「それは申し訳ございません」
後始末は鈴木くんに任せたのだ。逃げた訳ではない。言い訳したらその倍、毒舌がやって来る事を思えば、先回りして謝るのが1番である。
上杉部長は「それはもういい」と、さらりと流して、
「おまえの次の仕事だ」
そう言って1つのマネキンを……じゃなかった。さっぱり風呂上がりみたいにツルンとした顔の若い男性社員を前に押し出してくる。何故か倒れそうになるその男性社員を、ちょうどそこにやって来た渡部くんが、「うわっ」とばかりに一緒によろめいた。上杉部長はそう言ったきり、ぷいと出て行く。何の説明も無い。あたしは、階段ドアが閉まる瞬間の彼を捕まえた。
「あれ何ですか!仕事って……」
「あいつを鍛えろ。それがおまえの次の仕事だ」
「あたしもう教育課じゃありません。これだとまた自分の仕事が遅れます」
「いちいち最初から教えたら、現場の仕事が遅れる」
「そんなの、そっちの勝手じゃないですか」
異議を最大目ヂカラに込めて、踊り場で立ち止まった上杉部長と対峙した。何度も同じ事を繰り返している。もうそろそろ終わりにしたい。
そこで彼はメガネを外した。とぼけた視界で十分だと言わんばかり。
「上には言っておく。おまえは後輩ヤリマンの本領発揮しろ」
そこで上杉部長はメガネを掛けた。
まるで何かのスイッチみたいだな、と思う。
「多分もらったんですよ。参加者から」
こういう事はよくあるらしい。ペアで1万5千円也。10万円の旅行券を先に見ていたせいか、それと比べたらパンチが足りない。
「なんだぁ」
その呟きを、鈴木くんは思いっきり誤解した。
「林檎さんって……そうだったんですか。すみません。気が付かなくて」
「こっちも気が付かなくてごめんね。何を謝ってるのか分かんない」
「ジャイアンの事、す」
「そこから先は浮かんでも言うなぁ」と、その胸元に片腕を突っ込んだ。それ気が付かなくて正解。「そんな訳無いって、見てたら分かるでしょ」
「では渡部とは?」
おまえは久保田か、と言いたいのを我慢して「無い無い無い」と繰り返した。
「それを言ったらあたしと鈴木くん、ある?」と詰め寄ったら、「無い無い無い」と繰り返された。渡部くんの可愛気には到底及ばないゾ。
「後始末は、お任せ下さい。林檎さんは、どうぞご自分の仕事へ」
思わず肩透かしを喰らった。オマエは部長か?コロッと変わって急にお堅い系で来られると、鈴木くんは気軽に誘える雰囲気とはまだまだ遠いな、と感じる。こっちがオゴってあげるどころか、ぼやぼやしてたら、こっちが鈴木くんにオゴられる立場になってしまうかも。
そこから後の事は鈴木くんに甘えて、自分の仕事の為にデスクに戻ってきた。
毒舌ジャイアンと講義中の大先生。あたしは上杉東彦2人説を唱えたい。
その2面性には驚いたけれど、あの壇上では意識的に切り替わるよう自分で操作している気がした。いつかみたいに思いがけず笑った時の、あの素の感じとは程遠い。彼の自然な姿は……そこで喫煙室での休憩の様子が思い浮かぶ。あれをナチュラルと言うなら地獄的だ。不健康だし、険悪だし、一服に癒されている感じでもないし。あれではハゲても文句は言えない。
そういうあたしは……デスク上の鏡を覗いたら、顎に1つニキビが出来ていた。いけない、と思いつつぷちっと潰すとコメドがぷにゅっと飛び出して一瞬の快感が……オカシイ。いつの間にか、ヤベぇ奴になってる。
1つ作業を終えて、その向こうでまだ頑張っている渡部くんを見守りつつ、ふと時計を見ると、午後9時。
帰る準備を始めたその時、スマホが鳴って、誰かと思ったら美穂だった。『今って手伝える?』と来て、あたしは荷物を抱えて美穂の所に向かう。
美穂の第1営業部は5階フロアの半分を占領している部署だ。同じフロアでも隅っこに小さく収まっている第5とはエラい違い。美穂は、そこから1つ上の会場で後始末をしていると言うので行ってみた。会場内はすっかり片付けが終わっているものの、通路だけが何体ものマネキンで埋まったまま。
〝イケてるエグゼクティブを目指せ!中堅社員のためのファッション講座〟
いつかの案件は少々名前を変えて開催されたらしい。様々なコーディネートを施されたマネキンの波の中からすいすいと美穂がやって来て、「ライブへようこそ」と、片手を上げた。
「で?踊ってるのは、美穂が独り?」
「まぁね」
これ以上、美穂に訊くのは拷問に等しい。みんな忙しいから。この後用事があるから。最近朝が早かったから……言い訳を勝手に思い浮かべながら、あたしは腕まくり、早速作業に入った。
美穂は向こうから、あたしはこっちから。マネキンから1つ1つ洋服を外して箱に分類。業者が取りに来る明日の朝までマネキンはそのまま立てておくという。
「スカートと違ってズボンは外すのに時間が掛かるなぁ」
「アクセは気を付けてね。無くすとヤバいから」
「高価いの?」
「かなり高価な物は外してある。今付いてるのは程々の物」
タイピン、カフスボタン、胸のチーフも外して歩く。まるでアパレル業界。
「うちの社章バッジはどうする?」
「いいよ。食べて」
「あざっす」
社名アルファベット〝P〟の1文字をあしらったブルー&ホワイトの丸い社章がそれである。同系色のスーツでは目立たないかもしれない。そこを考慮して、目立つようコーディネートされているというなら大したものだ。
あたしは思わず目の前のマネキンに抱き付いた。この硬さは、いつかの上杉部長とはまるで違う。当たり前と言うか、匂いも温度も感じない。
「あたし、これよりもうちょっと背の高い彼氏がいいなぁ。今日のデートは?」
「とうとうリアルを諦めたの?2次元を通り越してそれか」
「しばらくは、これでいいかも。うーん、あたしお洒落な居酒屋がいいなぁ~」
「そのしばらく、あと何年続ける気?茶番もいい加減にしたら?」
「なによぅ。美穂だって居ない歴そろそろ2年ぐらいになるでしょ」
「まさか飲んでないよね?今は」と疑われて、「飲んでないよ。今は」
美穂は、やれやれと言う顔で溜め息をついた。
「だから、飲んでないって」
そう言えば、上杉部長に雑用を頼まれるようになってから1度も飲んでいない。会社でちくっとやる勇気も無ければ、家飲みもしていなかった。毎日がハンパない疲労感で、夜はベッドに速攻飛び込んでしまう。これではニキビが出来るのも頷ける。今夜は美穂を誘って繰り出すかなぁ。あのペアチケット、使えるかな。今日は遅いから別の日にでも……ガラス越しに美穂の姿を映しながら、潰したニキビを指で転がしていたら、
「ネクタイだけはブランド別のボックスにね」
丁寧に、と美穂に釘を刺されて肩をすくめた。この後の事を考えて、今は大人しく従っておこう。
長い髪を後ろにしばり、遅れ毛を気にすることなく、美穂は作業に没頭していた。黙っていればモテる。いや、黙ってなくても適齢期の男性が放っとかない気がする。顔立ちは彫が深くてエキゾチックな、ちょっといい女風。それを自分でも分かっているのか、ビジネススーツのインナーは普段からシャープなカットソーでキメていた。同期から〝社長夫人〟って呼ばれて、入社当初からキレキレで。
ふと。
「渡部くんも呼ぼうか」
「もう呼んである。1つ終わったら来てくれるって」
こういう時に、普段の泊まり込みの借りを返してもらうのだ。ついでに、今日渡部くんに助けられてキュン死した話をした所、
「一度マジで訊こうと思ってたんだけど、まゆって渡部くんの事好きなの?」
「久保田がここにも居るゼ。それを美穂が訊く?見て分かんない?」
「へぇ。好きなんだぁ。一途だねぇ」
「そうか。おまえはやっぱり久保田だな。着ぐるみを脱げ」
確かにちょっとだけ渡部くんにマジキュンしたけど、あれはそういう意味じゃない。さらりと助け舟を出してくれて、そういう余裕を感じて感動したというだけの事だ。それを言えば、講義中の上杉部長にも少々キュンときた。〝先生〟と見れば、頼れる存在とも思える。優秀な人に対する嫉妬、それも否定しない。それよりあたしは一体、いつまで雑用係が続くのか。思わず溜め息を付いた時、ふと、外したシャツの袖口に、ぼんやりシミのような物を見つけた。
「これクリーニングとかしなくていいの?」
「いらないんだってさ」
またひとつ先を眺めながら、「これなんて、女子ウケ抜群じゃない?講師は誰だっけ?さすがカリスマ・コーディネーター」そこから次に並ぶマネキンの胸の辺りを撫でつつ、あたしは再び、その胸の中に思いっきり顔を埋めた。
「来ちゃったぁーん。飲みすぎたぁ~。今夜は泊めてぇ~ん」
彼氏の部屋に転がり込んだ女の妄想をフル回転させる。素面でこのノリ。酔ってたら、さらに現実と区別がつかなくなって、マネキンを連れて帰ってしまうかもしれない。このマネキンは、妙に好い匂いがする。ここまでリアルにコーディネートするのかと感心した。今やどの業界も3D4Dは当たり前かぁ。
その温かい胸元からは、定期的に振動が伝わって来た。この辺りから……さすがのあたしも何かがおかしいと気付き始める。マネキンはこんなに温かくない。IDカードも付けない。そしてマネキンは……見上げた時、メガネの奥からハ虫類のような眼力で睨みつけ、その眉をぴくりとも動かさず、「2度目だ。馴れ馴れしい。次は殺すぞ」と、脅したりなんかしない。
うわぁぁっ!
神出鬼没っ。上杉部長を押し退けたつもりが、こっちが弾かれて、あたしは本物のマネキンもろとも将棋倒しになってしまった。そこから自然と助け起こされたりなんかしたけれど、腕の力だけで軽々と操られているような錯覚も手伝って、動揺が止まらない。「す、す、すみませんっ」
「確かおまえはアップルという名の、薄っすいモバイルみたいな胸の女か」
それを聞いて、美穂がぷっと吹き出した。
「ちょっと、そこ笑うとこ?」
マネキンを起こしつつ「ごめんごめん」とか言いながら美穂はまだ笑っている。「お疲れさまです」と上杉部長に一礼して、「さすが今日も冴えてますね」と、オダてて、美穂はまた作業に戻った。上杉部長はとっくに何事も無かったようにコーディネートを興味深く眺めている。「よく出来てる」と頷いて見せていた。
「あたしは、こっちの方がいいと思います」
別のマネキンを指したら、部長はそのジャケット裏を確かめながら、
「どうせヤラしい事考えるなら誰でも同じだ。おまえはある意味正しい。いっその事俺じゃなくてマネキンと結婚しろ。少々相手が動かなくても女は平気だ」
1日の終わりに……酷い事を詳しく言われたらしい事は分かった。部長は、美穂にマネキンレンタルの値段を聞いて、「意外と高価いな」とか言ってるけど、そんな事どうでもいいでしょ!
適齢期女子代表として言われっ放しも納得できないと、あたしはムキになる。
「上杉部長は偏見の塊のようですが。結婚って、ヤラしいだけでしょうか」
「いや、そこに女の無料奉仕も付けよう」
恐らく、人類史上滅多にお目にかかれない最低発言じゃないだろうか。クズぶりが清々しかったのか、「ブレませんね。その姿勢」美穂は笑顔で受け止める。物は言い様か。思わず目を見張る。これも女子力の1つかもしれないけど。
「あの、何ですか。もう研修は終わったじゃないですか」
「終わった。後は」部長に最後まで言わせず、「それは申し訳ございません」
後始末は鈴木くんに任せたのだ。逃げた訳ではない。言い訳したらその倍、毒舌がやって来る事を思えば、先回りして謝るのが1番である。
上杉部長は「それはもういい」と、さらりと流して、
「おまえの次の仕事だ」
そう言って1つのマネキンを……じゃなかった。さっぱり風呂上がりみたいにツルンとした顔の若い男性社員を前に押し出してくる。何故か倒れそうになるその男性社員を、ちょうどそこにやって来た渡部くんが、「うわっ」とばかりに一緒によろめいた。上杉部長はそう言ったきり、ぷいと出て行く。何の説明も無い。あたしは、階段ドアが閉まる瞬間の彼を捕まえた。
「あれ何ですか!仕事って……」
「あいつを鍛えろ。それがおまえの次の仕事だ」
「あたしもう教育課じゃありません。これだとまた自分の仕事が遅れます」
「いちいち最初から教えたら、現場の仕事が遅れる」
「そんなの、そっちの勝手じゃないですか」
異議を最大目ヂカラに込めて、踊り場で立ち止まった上杉部長と対峙した。何度も同じ事を繰り返している。もうそろそろ終わりにしたい。
そこで彼はメガネを外した。とぼけた視界で十分だと言わんばかり。
「上には言っておく。おまえは後輩ヤリマンの本領発揮しろ」
そこで上杉部長はメガネを掛けた。
まるで何かのスイッチみたいだな、と思う。