アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
その後、私は大した理由もなく仕事をやめてしまった。
都心のビルで働いていることも雑誌に乗っていた流行の靴をはいていることも、ある日突然どうでもよくなった。
そうなるときつい口調で私のミスを責める先輩なんて顔も見たくなくなった。
どうにかなる。簡単にそう思えたのは私が若く世間知らずだったからだ。
やめる、そう決めた私は誰の制止も聞かなかった。まだ入社して一年もたたない私を引き止めたのは例の意地悪な先輩だけで、その彼女の言葉も素直には受け止められなかった。
私はすぐに会社をやめた。
そして、会う理由がお互いに「付き合っているから」だけになってしまうと私と蒔田君はだんだん疎遠になり、数ヶ月もたたないうちに会わなくなった。
最後は蒔田君のほうで別に気になる女性ができたという理由で別れることになった。
私は彼の心がわりを口では責めながら、心の中では彼を失う苦しさよりも、他の女性と比較されて、自分が切り捨てられることへの屈辱しか見えていなかったように思う。
彼との間にいい思い出がないわけではないが、当時の思い出にはどうしても未熟だった自分への恥ずかしさが付きまとう。
蒔田君と付き合っていたころの私は幼かった。そして、確実に舞い上がっていた。
大人と呼ばれる立場になった事。
自分の収入でおしゃれな服が買えるようになった事。
磨きたてた大理石のロビーの上を、ピンヒールを鳴らしながら歩くということ。
かっこいい恋人がいるということに。
自分本位で周りが見えていなかった当時の私を思い出すと恥ずかしさで顔が熱くなる。そのころの私を知る蒔田くんがどんな思いで私と向き合っているのかを思うとすぐに会話を切り上げて逃げてしまいたい気持ちになった。
「元気だよ。俺も転職してさ、今は不動産の営業をやってる」
「そうなんだ」
蒔田君は相変わらず、清潔感があって見た目が華やかだった。
私はどうだろうか。会社員をやっていた頃よりもずっと身なりは簡素になったし、おしゃれもしなくなって久しい。
「遙は?今何をしてるの」
「私は家業を手伝って……それで、今は親の店を継いでる」
蒔田君は感心したように眉を上げた。
「へえ、経営者じゃん」
「そんないいものじゃないよ。店そのものもお客さんも親から引き継いだだけだし。バイトの一人も雇えない小さな店だから大変だよ」
「いやいや、一人でやってるならなおさらたいしたもんだよ。出世したじゃん。自分の才覚で自由に動けるんだから、遙にはOLやってるよりよかったのかもな。
今度、店にコーヒーを飲みにいっていい?」
愛想のいい言葉に私は頷いた。昔から彼は愛想がよかった。親から店とお客さんを引き継いだだけの私は今のところ何を頑張ったというわけでもないと思う。「たいしたもん」といえるほどの経営努力もしていない。
それでも蒔田君はどこかしら褒めるところを見つけていい気分にさせてくれる。先ほど感じた恥の感情はいつの間にか薄れ、懐かしさがとってかわっている。
きっと彼は頭の回転が速いのだろう。私ならとてもこんなにすらすらと人を褒める事はできない。