アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
私は使ったナイフをキッチンで洗いながら、雑談の流れでそう尋ねた。
「蒔田君、お正月は実家に行ったの?」
「いや、帰ってない。
実はまだ親に離婚したことを言えていないんだ。一人で帰ったら何かあったのはすぐにわかるしな。かといって変に言いつくろうのもな……」
私は驚いて顔を上げた。彼は確か一人っ子だったはずだ。
「言わなくて大丈夫なの?」
昔、恋人同士だったという気安さから、私はお客相手なら絶対に口にしないようなことを自然と口にしていた。
彼はうーんと唸って顎をなでた。
「まずいだろうなぁ。
うちの親はただでさえ孫が嫁の実家に遊びに行くのを嫌がってたから、遊びにいくどころかもう孫があっちで暮らしているなんて知ったら俺はもう実家の敷居をまたがせてもらえないよ。
だから帰ることもできやしないし、かといって家には食い物もないし。この寒空の下、昔の彼女の店に来たってわけ」
彼は冗談めかしてそう言ったが、聞いている私は笑えなかった。独身で華やかなことを好み、いつも楽しそうにしていた昔の蒔田君しか知らない私は、話し相手にすら不自由しているらしい今の蒔田君がひどく変わってしまったようで寂しかった。
蒔田君は私の出した何一つ変わったところのないモーニングを平らげた。
「うーん、なんだか」
彼は自身のおなかのあたりを撫でた。
「足りない?
じゃあもう少し食べる?サービスするよ」
私は茹でた卵を籠ごとカウンターの上にのせ、パンを切り始めた。
「いいのか?」
「だって雪のせいでお客さんが来ないから。
少なめに作ったんだけどね、このままじゃ余ってしまいそう」
「気前がいいのは嬉しいけど、経営も考えろよ」
「つぎからは正規の料金を貰うよ。今日のサービスはまた来てもらうためのサービスだからね。会社の人も連れてきてね」
念を押すと、彼はははっ、と声をあげて笑った。
その笑顔はやはり昔の蒔田君の華やかさを匂わせていて、少しこちらを安堵させてくれた。
「わかったよ、誰か連れてくる」
「よろしくね」