アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
まさか彼がそんな言葉を知っていると思わなかった私は驚かされた。
誰だ、王子にそんな日本語を教えたのは。
彼にそんな言葉を教えた顔も知らないその人に呆れてしまったけれど、ミハイルが声を立てて笑ったことにほっと心が緩んだ。何か珍しい花が咲いているのを見たような、そんな気持ちだ。
「もし僕が日本人だったら、そのタンテイになるのもいいね」
「そうだね。もしそうなったらここの和室を事務所にしてもいいよ。
事務机と電話を置いて、商談は店でしてもらうの。そうしたらうちもコーヒー代が儲(もう)かるじゃない?」
「いい考えだね。僕も助かる、あなたも助かる」
実際にはありえない話だ。
カガンの王子が日本に亡命する……までは可能性もないではないが、その王子が探偵に転職するなんて。
けれど、そうできたらどんなにいいだろう。
ミハイルは危険な場所に戻らなくていい。
ううん、仕事などどうでもいいのだ。ミハイルが……安全なところで笑っていてくれたら……それで。
不意に、言いようもないほど悲しくなった。
私の気持ちが伝わったのだろうか、ミハイルは私の目を見つめた。彼の瞳には悲しみにも似た諦めが滲(にじ)んでいた。
王子は、なりたいものにはなれない。住みたい場所にも住めない。
「タンテイでも、何でも……」
彼は独り言のように小さな声で囁いた。彼の言葉が窓ガラスにふれ、白く曇った。
『このまま日本にいられたら』
飲み込んだその言葉の哀しさに、私は泣き出しそうになった。無力な自分が情けなかった。