アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
「今日は忙しかった?疲れた顔をしてる」
ミハイルの声音からは冷たい少し突き放したような感じが消えうせ、代わりに甘やかすような優しい響きが含まれている。
私達は変わったのだ。はかない夜の痕跡よりも、その声音にこそしっかりと私達の関係が刻まれていた。
「そりゃあ……まあ、」
昨夜はほとんど眠っていないから。
言いかけて私は口ごもった。
ミハイルは私の飲み込んだ言葉に気がついて、頬を赤らめた。
「そうだ、僕のせいだった」
「……」
彼の長い指が私の髪を捉えた。彼は指先で絡めとった私の髪をそっと口元に押し当てた。
「いやだった?だから、朝の挨拶もしてくれないで仕事に行ったの」
「そうじゃないよ……」
昨夜の事は夢だったのかと思うくらいが丁度いいと思ったのだ。
「じゃあ、嬉しかった?
……僕は変な気分だ。
ずっと落ち着かないんだ。僕を置いて店で働くあなたが恨めしい。
それなのに、あなたが戻ってきたら何を言おうか、何かあなたが喜ぶようなことを言いたいって……一日中そればかり考えていた」
私の顔が熱くなった。
恋をするのは初めてではない。それでも彼の子どものように率直な言葉が私の心を子どものころに引き戻してしまう。
「あんなことがあったのに、いつも通りに働くあなたって冷たいね。
僕は浮かれて少しも頭が働かない。
あなたって……本当に悪い人だ」
彼はそう言いながら私の髪を優しく引き寄せ、頤に手をかけそっと唇を重ねた。
私が抵抗しないのを感じ取ると、彼は私をその腕で包み込むように抱きしめた。昨夜おぼえた彼の肌の香りがかすかに感じられ、私は目を閉じた。誰かの体温の中でほっと息を吐く感覚は子どものころを思い出させた。
しばらくじっと彼の肌のにおいと、彼の服に忍び込んだ冬の冷たい空気を感じていると、彼はぽつりと呟いた。
「マキタ、は、あなたの恋人だった?」
私は彼の腕の中で顔を上げた。彼を見上げると、その美貌は羞恥と屈辱に赤く染まっていた。
「……忘れて。変なことを聞いた」