アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)

私は小さく頷いた。


私の家にはイギリス王室御用達だという店の古い紅茶の缶がある。旅行帰りのお客さんに頂いたのだと思うが、それが誰だったかも思い出せなくなるほど昔から、それはうちにある。

我が家の誰もがイギリス王室に特別な感情はなかったはずなのに、やはり御用達といわれると紅茶を飲みきって以降もその缶はいつまでも捨てられずに家にある。

たかが紅茶の缶でそうなるのだ。彼の国の国民が彼の顔色をどう受け取るのか、その影響力には計り知れないものがあるということは確かにあるだろう。

好きな相手に愛しているとさえいえない宮廷で、彼は一体どんな子ども時代をすごしたのだろう。
私はカガンもカガンの宮廷も知らない。だから思い込みで彼の子ども時代が不幸だったとは思いたくない。けれど、感情を殺して生きることは子どもにはなかなかの苦行だったことだろうと思われてならない。

王子は表情を曇らせた私に優しく微笑んだ。


「ここは宮廷じゃない。だから……」

彼はゆっくりと私の顔を寄せ、はじめに私の髪、そしてまぶたに唇を押し付けた。

「Я люблю тебя」

小さく甘い囁きに、私は顔を赤らめた。

私の知るミハイル以外のカガン人は素朴というか、感情の波の大きな人々だ。
店に置いてあるテレビから流れる保険会社のCMを見て彼らが涙ぐんでいたのを見たことがある。たった数分足らずの家族をテーマにしたCMに、数人の中年男が揃って目を潤ませている光景は少し奇妙だった。


そしてミハイルもまた、王族として宮廷の流儀を身につけているが、一旦その殻を脱ぎ捨ててみれば素直な感情をまっすぐにぶつけてくる。
感情を素直に態度に出したり口にだしたりすることが「男らしくない」という雰囲気のある日本人とはやはりその点は違う。
どちらがいい悪いではない。単に文化の違いなのだろうが、私はやはり自分自身が日本人なので、ミハイルの素直な愛情表現にはどこか幼い子どもが母親に向けるようなものを肌触りを感じ取って、彼が眩しい。

彼の置かれている状況がよけいに彼をそうさせているのだろうか。不安定で、明日をも知れない身の上が……。
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