アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
ミハイルは私の腕をつかんで強く引いた。
「もう、カガンには帰りたくない……」
彼は私の耳にそう囁いた。
「……うん……」
彼は私を抱きしめ、私の髪を撫でた。
「あなたが好きなんだ。帰りたくない」
「うん」
父が使っていた和室に事務机を置いて、電話を置いて。
探偵になれたらいいね。
半分冗談で言い交わしたあの瞬間が二人の間に蘇った。
そうできたら。いや、できなくはないのではないか。
そう思いながら、互いに言葉にして約束をすることはできなかった。そうして欲しいなどと私の方から口にして、若くまっすぐな彼があとあと私に罪悪感を感じるようなことにはしたくなかった。
今の私達が交わすことができるのは短い呟きだけだった。
「Я люблю тебя……」
「ヤー……リュブリュー、チェービャ……」
小さな愛の言葉にたどたどしい私のカガン語がそう答えた。
「Я люблю тебя」
「……ヤー、リュブリュー、チェー……」
ミハイルの腕に力がこもり、肩の骨が折れそうなほど強く、強く抱きしめられた。私は彼の胸に顔を押し付け、彼の体温、彼の肌の香りをじっと感じていた。
この人から母国を奪い、一緒に住んで欲しいというだけの価値が、私にはあるのだろうか……。この人の幸せを確約することなどできるのだろうか……。いつかこの人が激しい後悔と自国民に対する罪悪感に苦しめられるんじゃないか。
そう不安に思いながらも私の心の悪魔が囁いた。
愛しているなら縋(すが)れ。
この人を失えばもうお前の心に明かりがともされる機会など二度とないだろう、と。