アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
ミハイルを送り出したあと、すぐにモーニングのお客がやってきて、店は人の声や物音で一杯になった。
一人で注文をさばき終え、なんとかモーニングの時間をのりきった私は、ふとミハイルがどこでどうしているだろうかと考えた。考えたところで答えの出ることではなし、ミハイルに聞いても明確な答えが返ってこないのはわかっている。しかしけっして人前には出せない不安定な私達の関係をひとたび思えばそれだけ不安にとらわれてしまう。
もうこれきり会えないのではないか。
いやな想像が心をかすめたその瞬間、熱くなったフライパンに手のひらがかすった。
調理場の仕事にはなれているのでやけどの熱さには慣れている。私は声をあげることもなく眉根を寄せて手のひらを流水にあてた。
縁起でもない事を考えたからだ。
心配をしたところで何になる。
仕事に集中できない自分を心の中でしかりつけていると、軽やかなベルの音が店内に鳴り響いた。
店の戸口のところに立っていたのは近所のパン屋のおばさんだった。
「ハルちゃん、大丈夫?その手」
商工会のチラシを持ってきてくれたパン屋のおばさんが赤くなった私の手をみて自分の手が痛んでいるかのような顔をした。
私は自分の手を見下ろして恥ずかしさに照れ笑いを浮かべた。
「ぼうっとしちゃって。驚かせてごめんなさい」
「よく冷やしなさいよ、火傷だってばかにしていたらあとになったりするんだから……」
おばさんは誰もいない店の中を見回した。
この時間は丁度カガン公邸職員の交替の時間だ。
少し前ならばこの店にはカガン語のおしゃべりとカガンティーのにおいが充満しているはずだった。けれど、今は店の中が閑散としている。
「あまり思い悩んでもしようがないよ、商売ってのはいいときも悪いときもあるのが常だから。
とはいってもここと鈴村商店さんは今一番厳しいかもねえ、うちもやっぱり売り上げは落ちたけれどね」
鈴村商店というのは商店街の店で、駄菓子と煙草を扱う店だが、やはりウチと同じようにカガン人の客の求めに応じてカガンのタバコも多少割高ではあるが扱っていた。
「商店街の中はどこもそうかもしれませんね」
しみじみとそう答えると、彼女は肩をすくめた。
「あんなに遠い国のクーデターがこんな小さな商店街に影響するなんてね、考えたこともなかったね」