アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)





「え、と。『こんにちは』はЗдравствуйте!、ズドラーストヴィーチェ。『さようなら』は貴族以上の家柄の人たちにはДо свидания.ダスヴィダーニャで、一般の人むけにはДо побачення.ポポバチェンナ」


私は井出さんに借りた辞書のページを繰りながらブツブツと下手なカガン語を繰り返した。

発音記号はきちんと辞書に書かれているが、私はきっと学生時代に勉強不足だったのだろう、頭の中に思い描く音と記号がなかなか一致しなかった。たとえ必要ないと思っても人生何があるのかわからないのだから学生のうちに勉強できることはしておくべきだった、と今さら後悔したがすでにおそい。しかたなく似た音をカタカナで表現して書きとめておく。

長くロシア属領だったカガンでは、7世紀以降にできた言葉はそのほとんどがロシア語だが、ロシア語自体のベースになっている古代スラブ語がそのまま今のカガン語に残っていたり、ウクライナ語ともよく似た単語がある。

つまり七世紀以前に話されていたスラブ語と七世紀以降ロシアで使われていたロシア語、ウクライナ語の混ざり合ったものが現代のカガン語になったということのようだ。ただし宮廷で使われる言葉はロシア語を起源とするものが多い、というのが井出さんの解説だ。

彼はできるだけ私にも分かるようにカガン語とカガンの歴史について軽く教えてくれたのだが、学生のときでさえ最低限の勉強しかしなかった私は記憶力が腐ってしまったのだろうか、自分でも驚くほど物覚えが悪くなっていた。

「わからない……」

アルファベットならば多少は学校で学んだものの、今のカガンが使っている文字はキリル文字だ。馴染みのない文字に音の理解がついていかない。

ホテルから出られず、これといってやるべきことがないのでなんとなくはじめたカガン語の勉強だが、英語さえままならない私にとって、外国語を覚えるというのは思った以上に難しいことだった。

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