アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
「確かに、日本の冬服じゃ少し寒いかもしれない」
「やっぱり」
「向こうに着いたらすぐに帽子とブーツを買おう。
あなたのブーツじゃ滑(すべ)ってしまうし、耳の隠れる帽子をかぶらないとすぐに凍傷になってしまう。
あなたはあまり外を歩くことにはならないと思うけれど、念のために」
ミハイルは肩に私のバッグをかけると、当たり前のように私のスーツケースを引いた。私の荷物なのに、私は何も持っていない。王子様にこんな事をさせてもいいのだろうか。
「ミハイル。いいよ、自分で」
「国に帰ったら、僕があなたのために動くことが難しくなるから今だけは僕にやらせて」
「でも、重いでしょ」
「重いなら尚更僕が持つ」
ミハイルは少し落ち着かないようだった。といってもそれは不安ではなく、どこか浮かれているように見える。
「さあ、行こう」
住み慣れた家を出ると、冷たく乾いた風が私の髪を乱した。
顔にかかった髪を払いながら通りに目をやると、いつの間にか商店街の大通りに桃色に染めた提灯(ちょうちん)と、桃の枝が一定間隔で街路樹や電柱に取り付けられていた。
「ハルカ?」
足を止めた私をミハイルが振り返る。
そして私の視線の先を目で追い、不思議そうな顔をした。
桃色の提灯は近くの神社で行う流し雛(びな)という祭りのためのものだ。流し雛は女の子の厄払いのための行事で、ちょうど桃の節句に行われる。
この行事では乳児から中学生くらいまでの女の子が振袖を着て髪に桃の飾りをつけ、それぞれ自分に見立てた紙人形に自分の厄をのせて川に流す。メインの儀式は紙人形を川に流すことだが、晴れ着姿の女の子たちがつれだって神社に向かう姿はとても可愛らしく華やかだ。
そして、近隣の人々のお目当ては神社で振舞われる甘酒や出店などになっている。商店街の店は協賛金という形でこの行事に一定の金額を出す。うちの店からも少しではあるがお金を出していた。
よくよく指を折って考えてみればあと二日で流し雛の日だった。
毎年当たり前に眺めてきた流し雛の祭りを、ミハイルはきっと知らない。
もう少し帰国の日が遅ければ私達は祭りに参加できたかもしれないのに。