アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
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もうしばらくホテルにいてはどうかという井出さんの言葉を断った私は、ひとけの絶えた自分の家の玄関に立ちすくんだ。
あたりまえのことだし身構えてもいたつもりだったが、住み慣れた我が家は音が絶え、妙に広く感じられた。
ここにはもうミハイルはいない。
少し冷淡な表情も、そして思いのほか情熱的な恋のささやきも、もうここには残っていない。
ここには私になじんだひとりぼっちの自由と孤独があるだけだ。
私はその場に立ちつくしたまま、白い息を吐いた。
部屋の中を見回すと、ミハイルがよく使っていたカップがキッチンの水切りに置かれていた。
彼がよく着ていたロイヤルブルーのニットは縮まないように陰干しされたまま、持ち主の帰りを待っている。
たった数ヶ月の間に彼の持ち物は少しずつ増え、彼がいなくなってなお彼の存在を主張している。
『あなたに忘れられてしまうなんて、絶対にいやだ』
私を詰(なじ)った時、彼はそう言った。
忘れられるはずがない。
もう先のことなど思い描けないほど、私はからっぽになってしまった。
今、自分自身が息をしているのが不思議なくらい、私には何もない。
もう私の中には何も残っていない。
私の体の中を流れていた温かい血汐(ちしお)はその温度を失い、まるで水のようだ。
なぜ私はまだ生きているのだろう。
大真面目にそんな大げさなことを考えてしまうほど、私は空っぽになっていた。
あのタラップを駆け下りるために、私は随分と大きな代償を支払ってしまったらしい。