アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)

就職は無理なことではないのかもしれない。むしろ、それを試みるのならば少し景気が上向いているといわれる今が時期としてはいいのだろう。

しかし働くとなるとどうしても思い出してしまうのが新卒で入った会社だ。

過去に一時の感情で会社を辞めてしまったことをぼんやりと思い返していると、なぜ辞めてしまったのか、そもそもちょっときつい先輩に指導されただけで辞めてしまえるような仕事をなぜ選んだのか、となぜ、なぜばかりが頭の中に湧いてくる。

すんでしまったことを思い出して後悔したいのではない。同じ過ちを繰り返したくなかったのだ。私にはもう逃げ込める親の懐はなく、店もこんな状態だ。就職に失敗すればあっという間に生活が成り立たなくなる。

ある意味恵まれていたがために私はそういうことを今まで考えたことがなかったけれど、結局のところ、私は今、かつて辞めた会社に就職したとしてもまた同じ事を繰り返してやめてしまうのだろう。


元々私は事務系の仕事には向いていないのかもしれない。
すくなくとも、市からの「健康診断のお知らせ」をまだ放置している私に事務員の適性はほとんどないだろう。

思い返せば私はまだほんの幼児のころからこの店のカウンターで父の背中を見守り、商店街のおばさんたちにかまわれ、幼いながらも店のテーブルを拭いたり朝刊と夕刊を取り替えたりしてきた。

今までの私の人生はこの店とともにあったといっても過言ではない。
ずっとここで暮らしてきたからあらためて意識したことはなかったけれど、この店がなくなったとして、「私」はそれでいいのだろうか。

父と私、二代にわたって増やし続けてきたポトスを処分して、傷の入った木のテーブルを処分して、ここにテナントを入れる。
それを想像すると、自分というものの根幹が大きくえぐられるような痛みを感じる。

無口でにこりともしない父と、同じくあまり喋らない私。
たった二人の家族だったのにそれでも家が静まり返ることがなかったのは、それはここには常にお客がいて、彼らが喋り、動く気配があったからではないのか。


その時、店のドアが音を立てて開いた。私はほとんど反射的に「いらっしゃいませ」と言いながら振り返った。



< 282 / 298 >

この作品をシェア

pagetop