アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)
潜伏中の王子にそんなことを聞いても頷くとは思っていなかったのだが、一応声をかけると彼は意外にもあっさりと頷いた。
変装というほどではないけれど、彼は帽子をかぶりマスクをつけた。
私が買ってきた大き目のミリタリージャケットを着こみ、髪をすべて帽子の中に入れてしまえば王子らしさはもうどこにも感じられない。背が高いことだけが人目を引くけれど、それだけで彼の素性が周囲にばれることはなさそうだ。
「いいですか」
変装した彼は少しいたずらっぽい表情を浮かべた。
ここのところずっときつく冷たい表情を浮かべていた彼がそんな顔をしたので、私は少し嬉しくなった。
彼を買い物に誘ってよかったと思った。
「うん、オッケ」
右手の親指と人差し指で円を作って笑って見せると、彼も久しぶりに口元にかすかな笑みを滲ませた。
まだ彼は両親をなくして一週間だ。本当は親しい人や亡くなった人を知る人々と一緒に過ぎた日々を思い出して心を慰めたい時期だろう。
あいにく彼の傍にいるのは私ひとりで、私は彼と親しくもなければ彼の両親を直接知っているわけではない。彼と一緒に亡き人の思い出を語りあい、若くして一度に両親を亡くした彼の心を慰めることはしてあげられない。
気の毒に。私はそう思いつつ、時計代わりにでもなったかのように定時に食事を出して、悲しむための場所を提供するだけ。
なぜ彼のそばにいるのが私一人なのだろう。
久々の彼の笑顔はそんな役立たずの私の罪悪感を少しだけやわらげてくれた。
「外では僕をミーシャと呼んでください」
私は一旦頷いてしまってからミーシャ、と口の中で小さく呟いてから首をかしげた。
「ミーシャ……なんだか女の子の名前みたい」
「ミハイルの愛称です。僕は女の子のミーシャは聞いた事がない」
それは常に凛として誇り高い王子にはあまり相応しくないような気がした。
ミハイルという名前についてはなんとも思わなかったのに、愛称になると途端に子どもの名前のように感じられる。不思議なことだ。