【完】悪名高い高嶺の花の素顔は、一途で、恋愛初心者で。
「用事ってなんですか?」
え?
ビクリと、肩が震えた。
聞きなれた声のはずなのに、まるで知らない人が発したものみたい。
恐る恐る振り返ると、そこにはいつもの柔らかい表情を浮かべた那月くんと目が合う。
初めて那月くんのことを、怖いと思った。
用事ってなに、って……。
「えっと……映画を観に行く約束、を……」
悩んだ末、口から出た言葉は少し震えていた。
那月くんは、完全に忘れているんだろうか。わたしとの約束を。
次の返事で、きっとわかる。覚悟して、ぎゅっと自分の手と手を握り合わせた。
「そうなんですね。誰と行くんですか?」
——ああ、そういうことか。
那月くんは憶えてる。わたしとの約束。憶えている上で、聞いてるんだ。
那月くんが怒っていることはわかるのに、それ以外がわからない。
どうしてわざわざ、そんなことを聞くの?那月くんは、一体なにを考えているんだろう。
なんて答えるのが正解?なんて答えたら……許して、くれる?
そこまで考えて、やめた。
正解なんてきっとない。
那月くんはもう、わたしに愛想を尽かしたんだ。そんな……言い方だった。
「それは……」
誤魔化そうと思って、代わりの言葉を探す。時間稼ぎに吐き出した言葉も情けないくらいに震えていて、いつもの感覚に危機感を覚える。
ダメだ、もう、泣いてしまう……。
こんなオフィスの真ん中で泣き出すなんて、とんだ恥さらし。というか、頭がおかしい人だと思われる可能性だってあるだろう。
えっと、なにか、何か言わなきゃ——。
「——僕とですよね、花京院さん」
……え?