水素と結晶と万年筆
~3ヶ月前………~

「先生、今日で最後ですね~」

私は悲しいのを隠すようにして、

敢えて明るく話しかけた。

「まあ、夏前にまた来るかも
知れないですけど……藤田さんの担当は
今日で最後ですね」

先生は、私が悲しんでいることを
知らないから、

『辞めることは知っていたでしょう』
と言うように、ただ淡々と答えている。

2対1の授業だったけれど、
隣の席の子はもう帰ってしまい、
帰る準備をしている私だけが先生と話している。

この状況なら、私は言いたいことを
自由に先生に言える。

「うーん………受験勉強も担当して欲しかったなぁ」

最後に一言のワガママ。
本当に尊敬していた先生。

【自分が先生をすごく気に入っていた】って、直接は言えないから、間接的に言ってみる。

「残念ながら、年末は自分も忙しいのでここには来れません」

「そうですか………」

言葉に詰まる。

「それじゃ、先生!!これ、読んでください。本当に、ありがとうございました!!」

このまま気まずくなるのは嫌で、勢いで言い切った。

「ありがとう。こちらこそ!」

丁寧にお辞儀をして席を立つ。
渡した手紙には、直接は伝えられなかった、感謝の言葉を並べておいた。

(ちゃんと読んでくれるかな………)

いつも通り、という顔で塾長に挨拶をして、塾を出る。

自動ドアが閉まる瞬間。
隙間からコピー機の前に立つ先生が見えた。

(先生、ありがとうございました!)
心の中で呟いて、外へ出ると自転車に股がり体重をかける。

勢いよく走り出して、
滑るように転がる自転車の車輪。
外は東京の繁華街だからまだ賑やかだ。

酔っぱらいの横を通りすぎて、
パチンコ屋の前を走り抜ける。

明るい道を抜けて河川敷へ………。





人がほとんどいなくなってきた所で、
私は止まった。
自転車を降り、土手のコンクリートの上に座る。

まだ、寒い季節でコンクリートは少し冷たい。



遠くで聞こえる騒がしさに耳を傾けて、深く息を吸うと、


頬を涙が伝った。

拭いても拭いても溢れてくる水。

苦しいときにやってくる土手の景色………。

全てを見比べて思った。

やっと気づいた、やっと気づけた。

そうか………そうだったんだ………






私は……先生が、好きだったんだ………。

でも、もう……遅かったこと。
気づくのが遅すぎた。

気づかなければ良かったのかもしれない、
一生知らなくても良かったのかもしれない………。


先生は

私の心に






大きな影を落としていった…………。
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