好きになるまで待ってなんていられない
カップを手に取りセットしてボタンを押す。たったそれだけの事なんだけど、自分でしてる。
社長だから、私に頼んでも何とも思わないのに。
…そっか、プライベートは社長じゃないものね。ずっとお父さんだったから。
下の子供さんも、もう中学生になってるはず。親子の直接的な関わりは、もう少なくなってる頃か…。
社長、気持ち多少太ったかなと思う時期もあったけど、また体型は昔に戻ってる。
…黙っていたらモテるのかも知れない。ダンディーで紳士に見えるから。いきなりあのきつい口調で話されたら、敬遠されるかも知れないけど。
席に戻ったからといって変わった事も無い。そろそろ帰ってもいいと思う。
“晩御飯”は、とうの昔に終わっている。
「社長、会社の前で降ろしてください」
「部屋は解ってる。送るよ」
「いいえ。会社で降ろしてください」
「フ…警戒か?」
違う。だけど、部屋まで送られて何かを勘繰られるのは嫌。
「はい。襲われる畏れがありますから」
そう言っておく。
「そうか、残念だな」
ドクンとする。…社長の言葉も本心で言っているとは思わない。からかい半分で言っている事だろう。
会社の前でいいって言ったのに。何故また駐車場に…。
「成美…これからは、俺を利用しても構わないんだぞ。勿論、利用じゃない関係の方が嬉しいけどな」
駐車場に車を停めるなら、部屋の前迄送って貰ってサッと降りてサッと駆け上がった方が良かった。この一角に停められては、場所が変わっただけで話が出来てしまう。誰も居ない密室だし。
「利用なんてしません、利用じゃない関わり方もしません」
…多分。ざわざわと、忘れたモノを揺らす言葉を言わないで。
「成美…俺が寂しいと言ったら、相手をしてくれるのか…」
あ、…なんて顔するの。これって狡いんじゃないの?こんな弱り切った顔、さっきまではして無かったくせに。
「灯…」
ぁ…嫌。不意に呼ばれた下の名前に身体が反応したのが解った。なんて事…。
これ以上、二人きりで長く居るのは良くない。
「…普段は下の名前では呼ばない約束です」
「今は会社に居る時じゃ無い」
「でも普段です」
「そうだな…。呼ばない約束だったな。……何年経ったんだ。灯…。いい女だったのが、益々いい女になったな」
…駄目だ。車というこの空間も良くない。これ以上居ては、身体がこの人の声に容赦なく反応してしまう。
距離も近過ぎる。車内の温度が上がりそうだ。
何度も呼ばれたその声で、灯なんて呼ぶから。
「最初は…愛して無かった訳ではないですよね?最初から、好きじゃ無くて結婚した訳じゃないですよね?一生を誓う結婚なんですから」
私も大概、策士だ。奥さんの事を出す事で、この男を鎮めようとした。
「今はその話、言いたくないな」
…熱が引いたのは解った。だけど…。急いでシートベルトを外した。返って来た言葉が、思っていた言葉と違ったから。
「おやすみなさい、ここ迄送って頂いて有難うございました」
レバーを引き、降りたと同時に走り出した。
パソコンを抱え、ショルダーバッグの紐を掴みながら、出来るだけ全力で走った。
もしも先回りされてアパートの前で待ち伏せされる事があっても、細い道に車は入れない。
直ぐに帰らず時間を潰せばいい。降りて捜さない限り見つからない。
そう思って細い道を選んで走り、身を潜めた。
はぁ、…はぁ、…。
吐き出す息さえ聞こえないように、手で口を押さえた。
暫くこうしていよう。
少し時間を置いてから帰れば大丈夫だ。