お口にクダサイ~記憶の中のフレグランス~
別室から戻ってきたお局様が「ああ、松嶋さんが外出していた時に、棚橋先生が近くまで来たからって事務長と話を少しね。明日も来るそうよ。何せ会計監査が近いから」

私は空になった湯呑みを片付けますといい、給湯室へと向かった。心なしか残された先生の湯呑みから、いつも先生がつけている柑橘系のフレグランスの香りが微かにしたような気がして、ドキドキした。

棚橋大雅(たなはしたいが)先生は、うちの病院がお世話になっている公認会計士だ。40歳、既婚者で子供はいない。年齢よりはるかに若くみえ、小さくて端正な顔立ちの先生は華があり、35歳で一等地に会計事務所を開いた勝ち組だ。

地味な私とは、月とすっぽんだ。

いつも細身のブランドのスーツに身を包み、颯爽と歩くその様は、いつも自信に満ち溢れていた。特に先生と会話らしい会話をしたことはなかった。

病院で出会っても挨拶をするだけだし、お茶を出しても、先生は一端は仕事の手をとめて「ありがとう」と言うけれど、私の方は見向きもせずに、すぐ様仕事に取りかかるといった感じだった。

会計監査が無事に終わって、打ち上げと称して、事務長以下うちの事務職員と、先生の事務所の社員との間で飲み会をした。緊張したけれども、特に先生と会話をした記憶がない。先生は既婚者でなくとも、私には高嶺の花だった。
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