Open Heart〜密やかに たおやかに〜
ゆっくりとした足取りでラウンジにやってきたのは、岡田社長だった。
ソファに座りかけた岡田社長は、偶然に見つけたというようにして、私に目を止めて、こちらに秘書を伴いゆったりと歩いてきた。
「これはこれは、樹里さん。久しぶりだね」
立ち上がり声を出そうとしても、社長を見たら喉がつまり、どうしても声が出せなかった。
「社長、お疲れさまです」
私の横にきた山田課長が、意気揚々と挨拶をする。
山田課長に笑顔でうなづく社長。
「お疲れさま。山田課長。仕事は順調かな?」
「はい。順調に進んでおります」
「……そうか。それは心強いな。最近、我が社には優秀な人材が増えてきて嬉しく思っているんですよ」
柔らかく微笑んだ社長に後ろにいた秘書が耳打ちをした。
「うむ……では、大事な約束相手が来たようだから失礼するよ。山田課長…キミには期待しているよ」
社長が山田課長の腕をポンと軽く叩いた。
「はい、必ずご期待に添えるように致します」
「ああ、頼むよ。それじゃあ、失礼」
私と山田課長は社長へ向けて頭を下げた。
頭を上げ社長が背中を向け私たちのテーブルから離れる姿を見送っていると、小柄だが、華やかな雰囲気のする若い女性が社長に走り寄ってくるのが見えた。
「おじさま、お待たせしちゃいましたかぁ?」
鼻にかかる声に似合う甘えた話し方だった。
「いや、今着いたばかりだよ。向こうでうちの社員に会って話をしていただけだ」
社員に手で示された私と山田課長は、まだ立っていたのでそのまま頭を下げる。
『うちの社員』
確かに私は、ただの社員だが、少し前まではシュウちゃんのフィアンセだったはずだ。
だが今、その言葉ではっきりと社長の気持ちが理解出来た。
フィアンセだった時期も今も社長にとって私は、所詮私は『うちの社員』の1人に過ぎなかったのだ。
「そうですかぁ……良かったわ、ところで……秀之さんは?」
沈み込む気持ちでいたところ、耳に入ってきた女性の言葉にハッとなる。この人はシュウちゃんとも知り合いなのだろうか。
ゆっくり顔を上げて改めて女性の横顔を観察した。
全てが可愛らしいパーツで出来たリカちゃん人形みたいで、たぶん、リカちゃんが現実にいたらこんな風じゃないかと思わせる風貌をしている。花柄でふわふわと袖口や裾の広がるワンピースが、彼女にとても似合っていた。
社長の横顔が見える。満面の笑みを女性に向けていた。
誰なんだろう。随分、親しそうだ。社長がさっき言っていた『大事な約束相手』とは彼女のことだろうか。
ぼうっとして突っ立っていた私に、山田課長は
「もう、いい加減座れ」と冷たく言い放ってくる。
力なくソファに腰を下ろした私の意識は、社長たちへ向いていた。
社長と女性の他愛もない挨拶程度の会話の中に『秀之がすぐに来る』というワードが聞こえていた。
シュウちゃんが、もうすぐでここへ来る。
近頃は会社でシュウちゃんを見るとひどく胸が傷んだ。
やむを得ず私がシュウちゃんから離れていくのと同じ時期にシュウちゃんも私から離れていくのには、戸惑いも感じている。
理由もわからず離れていくシュウちゃんに対しては自分勝手ではあるが怒りもわいてしまう。
何故だろう、どうしてだろうと考えれば考えるほどに最近の私は、シュウちゃんのことを思うと切なくて頭がどうにかなりそうだった。
それでも、考えないではいられない。
どうして、シュウちゃんは私から離れようとしているんだろう。
私に愛想がつきたのだろうか?嫌いになったの?私をもう、好きじゃないの?
シュウちゃんに問いただせない立場にある私は、ただ日々を悶々と過ごすだけだ。
ごちゃごちゃに整理がつかない頭の中で、唯一綺麗な状態で取り出せるものがある。
シュウちゃんと2人で過ごした大切な時間の記憶だ。
からかうとすぐに紅くなるシュウちゃんの顔、不服そうに尖らす口、大きく笑うと出る頰のシワ。
キスする時に触れる柔らかい髪、そして、唇、私の頰を撫でてくれる長い指先、包むようにハグしてくれる逞しい腕、悩んでる時に抱きとめてくれた大きな胸。
あげたらキリがないくらいのシュウちゃんと過ごした二年以上の記憶を私は、心の奥の引き出しにしまい込むことができるのだろうか。
それに、演技とはいえ二股をかけていたような女だったと、シュウちゃんに思われる事は、やはり辛い。辛くてたまらない。
本当の私は、シュウちゃんと付き合い出してから、他の男性に心を動かされるようなことはおろか、視線を奪われたこともなかったのに。
そんなことを考えていたら、ラウンジに
「遅くなりました」
という聞き慣れた低い声が聞こえてきて私は思わず振り向いていた。