Open Heart〜密やかに たおやかに〜
「そうだ、向こうに山田課長と樹里さんがいたんだ」
話のついでみたいな風にして、社長が私と山田課長の名前を出していた。
「え?」
社長に言われ、こちらへ向いたシュウちゃんと目が合った。
少し眉間にシワを刻んだシュウちゃんは、私と山田課長を交互に見た。それから、少しだけ口角を上げ頭を下げてみせた。
え、シュウちゃん、それだけなの。
何も咎める資格はない。
何も伝えられない気持ちを抱えたまま、私は、ぎゅっとスカートの布を掴んでひたすら耐えていた。
今、私から言えることは何もない。
「……行きましょう」
そう社長やミナさんを促したのは、シュウちゃんだった。シュウちゃんは、エスコートするようにミナさんの背中に軽く掌をあてがう。
「ああ、そうしよう」
シュウちゃんたちは、食事をするような会話を交わしながら社長を先頭にしてラウンジを出て行った。
あとには、私と山田課長だけが残されていた。
振り返ることをやめ、ソファに浅く腰をかけ背中を丸めている私に山田課長が声をかけてきた。
「あの女が誰か聞きたいか?」
「……」
山田課長から聞くまでもない。おそらく、どこかのお金持ちのご令嬢で、ミナさんという名前でシュウちゃんの幼馴染だ。
「アレは岡田課長の結婚相手だ」
「え?」
山田課長の口から、考え以上の言葉が出てきて私の思考は完全に停止した。
「結婚相手……」
話が早すぎやしないか? 私と社長がシュウちゃんとの結婚話について会話したのは、ほんの数日前だ。
それなのに、見合い相手でもなく結婚相手?
そんな馬鹿な……。
半信半疑で山田課長を見た。
「信じないのか?」
「だって……」
「ここに呼ばれた意味を考えろ?」
そうだった。
ここに山田課長とやってきた意味。それは、社長に会うためだと思っていた。
だが、社長とは挨拶しただけで、取り立てて話という話をしていない。すぐにミナさん、そしてシュウちゃんがやってきたのだ。
「今日の業務終了だ。帰っていいぞ」
「え……どういうことですか?」
「鈍いな。今日は、あんたをここに連れて来いと言われたのが俺の業務だ。社長の思惑は、岡田課長の新しい結婚相手をあんたに見せたかった。それだけ」
「そんな……」
「ただ、あんたは見るだけの業務だ。簡単だったな」
「どうして、わざわざ私に見せる必要が?」
「あんたに、あんたの定位置を知らしめる為だろ?」
「定位置?」
「そ、これ以上説明してもらいたい訳?」
呆れたような表情を向ける山田課長。
山田課長は、コートを掴んでソファから立ち上がった。
「帰るぞ。ここにずっといて王子が出てくるのを待つつもりなのか?見苦しい」
「……」
どうしたらいいのか見当がつかない。私は、これからどうすればいいのだろう。
「立てよ。あんたは、王子に捨てらた町娘だっていうことを忘れるな。とっとと場違いな場所から離れろ」
強く二の腕を山田課長に引っ張りあげられる。引っ張られるままに歩き、ホテルを出た。
冷たい風がさぁっと顔を撫でていく。
山田課長が自分のコートを私の羽織らせた。
「いりません」
コートを返そうとする手を掴まれ、山田課長を見上げた。
「あんたが風邪をひくっていう段取りは、台本に書いてない。無用なんだ。逆に今あんたが風邪なんかひいて、王子の気でも惹かれたら困る」
「山田課長は…冷たい人ですね」
「なぜ? 業務を遂行するために必要なことをしているだけだろ?」
「……」
無駄だ。山田課長は、私を見張り、私の恋人役を遂行することしか頭に無い人だ。何を言っても無駄だ。
もう、取り返しがつかない。時間は取り戻せない。どうあがいても、過去には戻れない。2度と取り戻せない過去に、私は絶望していた。