Open Heart〜密やかに たおやかに〜
「俺は部下の恋愛に口出ししないことにしています。キスも…」
シュウちゃんがチラリと私を見たような気がしたが、私はとてもじゃないがシュウちゃんの方を見られなかった。
「キスはしたいなら、すればいい」
シュウちゃんの言葉に私は凍りついていた。
なんて……なげやりな言い方なんだろう。
したきゃすればいいだなんて、すごく冷たい言い草だ。
「キスはしたい時に……するべきだと思っています」
少しも私を見ないでシュウちゃんは、宮本くんを見て話している。
したい時にする……
その言葉が、私の胸に突き刺さる。
シュウちゃんと付き合ってから、何万回、何億回とキスをした。
じゃれたような軽いキスや濃密なキス、最後にしたキスは、一体いつだったんだろう。
「じゃあ、岡田課長は宮路と山田課長の行為を肯定してるんっすね」
「……確かに、会社前だと、やりすぎです。褒められたことじゃない。でも……」
シュウちゃんが、ようやく私を見た。
胸が大きく音を立てる。自分では、制御できない心臓が自分勝手に忙しく動いていた。
「好きなら仕方ない」
シュウちゃんが、私を見ている。
何を思っているのだろう。私はシュウちゃんを黙って見つめた。
見つめ返してから、シュウちゃんは宮本くんへ視線を戻し穏やか口調で続ける。
「俺は……ああいうスタンスの山田課長を羨ましく思いますよ。俺には出来なかったことだから」
「なるほどね〜、確かに岡田課長のいうことは、もっともかもしれないですね」
何故か理解出来たとでも言うように頷く宮本くん。
「どうして?」
グラスを手にしたマキが宮本くんを見た。
「いや、好きでも、会社の連中に見られるのは恥ずかしいとか、公衆の面前でキスなんてみっともないとか、そういうことを何も考えずにしたい時にキスをする! そんなことが出来る男は俺もある意味で羨ましいかもなぁ〜」
そういってから、宮本くんは店内を見回してウェイトレスを見つけ笑顔を見せ手招きをした。
「同じものをもう一杯、いや待ってくださいね、岡田課長、ドリンクは?」
「じゃあ、俺も同じものをください…」
シュウちゃんが私のグラスが半分になっているのを見て『どうする?』って感じにして私を見て、ドリンクのメニューを差し出す。
いつものシュウちゃんとのやり取りだ。
あえて、聞かれなくても目を合わせれば、シュウちゃんが何を言いたいかを理解出来た。反対にシュウちゃんも私を大抵の場合、理解してくれる。
少し小首を傾げて、胸の辺りで手を動かす。『まだ、飲みものは大丈夫』そんな意味で。
そう応えると、シュウちゃんが少し微笑んで頷いてくれた。
「じゃ、それだけください」
シュウちゃんの言葉に一礼してウェイトレスが下がっていく。
「呆れた……」
マキが声を上げて、私を、そしてシュウちゃんを見比べる。
「何、今の?」
怒ったみたいしてマキは私を見ている。
「へ? マキさん、あれっ、どうかしました?」
マキの言葉と態度の変化に動揺した風の宮本くん。
「……やっぱり怪しい」
腕組みをして、私とシュウちゃんを交互に見るマキ。
「怪しい?何?えっ?」
マキの隣に座る宮本くんもマキの視線を追い、私とシュウちゃんを見る。
「へ? 2人のこと?」
「そうですよ。怪しい怪しいと前から思ってたんだけど、今のではっきりしました」
テーブルに身を乗り出してくるマキ。
「付き合ってたんでしょ! 岡田課長も樹里も白状しなさいよね」
私は慌ててシュウちゃんを見た。
どう答えた方がいいのだろう。迷っている私をよそにシュウちゃんは、少し息を吐いてから
「俺たちは、付き合ってたよ」
と、簡単に白状してしまった。
「うわっ、やっぱり! だから、課長は樹里だけ特別扱いだったんだぁ」
「付き合ってた? 嘘っ、岡田課長と宮路が?!」
随分驚いたのか、宮本くんは目をまん丸にした。
マキと宮本くんの視線を集めたシュウちゃんは、フッと息を吐いて微笑む。
「付き合ったっていえば、田邊の妄想を満足させられるか?」
シュウちゃんは、マキに向いた。
「へ? 本当は付き合ってない?どっち、え、俺軽くパニックなんだけど」
マキを見たり、シュウちゃんを見たりと忙しい宮本くん。
「妄想? そんなものしてませんよ。今の完璧おかしかったもん。目だけで会話成り立ってたし。会社でも、課長が触るのは樹里だけだし」
マキは、なおも食いついてくる。
未だに状況がわからずにいる宮本くん。
「触る?へ、セクハラ?」
「触るだと、なんか偉く 大袈裟だな、田邊。おまえが誤解するのは勝手だが、間違っている情報を社内に広められたら迷惑だ」
シュウちゃんは少し怒ったように顔をしかめた。
「俺と宮路は、付き合っていない。それに……これからも宮路と付き合うことは、絶対に無い」
はっきりとシュウちゃんが言いきる。
その姿を見て、今、私はシュウちゃんと間にある壁を感じた。
わかっていた。
シュウちゃんが、そう答えるのはわかっていたのに、私はショックを受けていた。
『これからも宮路と付き合うことは絶対に無い』
シュウちゃんの言葉が頭に胸に、全身に突き刺さる。わかっていたことなのに、私が望んだ結果なのに……。
「……ちょっと、ゴメンね」
私はみんなに断りを入れて席を立つ。
シュウちゃんのいる場所から早く離れてしまいたかった。そうでないと、涙が溢れてしまいそうだったから。
口を押さえて、店内を見渡し化粧室の案内を探す。
早く、早く……。
気持ちがせくほど、余計に足は進まない。
化粧室の場所を見つけた私の頰を雫がつたう。唇を噛みしめ、あえて背筋を伸ばした。
これなら、例え背中を見られても、泣いているなんてこと、きっと誰にも気がつかれないはずだ。
背中を丸めたらダメだ。下を向いてもいけない。
堂々と前を向いて歩いていけばいい。立ち上がるタイミングがどうであれ、堂々と振る舞えば大丈夫だ。
マキにも宮本くんにも、もちろんシュウちゃんにも気がつかれないですむ。
流れる雫を拭わずに化粧室までたどり着いていた。
よくやった。私は、演じ切った。
個室に入りドアを閉める。
水を流してから、私は泣いた。それでも、あまり泣けないことを私は承知している。
赤い鼻になったら、始めた芝居は台無しだ。
化粧が崩れたら、何もかもが無くなってしまう。私には、お金が必要なのだ。
父さんや母さん、妹を守ることを選んだのだ。そして、シュウちゃんの幸せを心から祈ったのだから。
涙をこらえて、個室から出る。鏡に向かい化粧を直して、弱い心に喝をいれた。
自分が決めたことは、自分しかできない。
私の代わりは誰もいないのだ。そのことを忘れないようにしよう。
鏡の中に映る私は、私であり私じゃない。
自分の中にある思い出にも、未来の中にも、もうシュウちゃんの姿を探してはいけない。
シュウちゃんは、今までもこれからも私には関係のない人だ。
そう決めたのは、私だ。
心の中でもシュウちゃんと呼ぶのは、もうやめよう。そうでないと、いつまでも私は優しいシュウちゃんの記憶を引きずりそうだ。
これ以上は、引きずれない。
私がシュウちゃんを、いや、岡田課長を引きずることを、決して誰も許してはくれないのだから。