むらさきひめ~死にたがりの貴方へ
しきメール11
「もう、ほんと驚いたよー」
ベッドの隣に椅子を寄せて、座りながら。お見舞いにと持って来てくれたリンゴを剥きながら、水無瀬さんが言う。
「倒れて病院に運ばれたって聞いてさ。でも、元気そうでよかったよ」
いつもみたいに、明るく笑う水無瀬さん。
「あ……うん」
僕はあいまいに頷く。彼女の顔を、まっすぐには見れない。
何せ、昨日のあの光景がまだ目に焼きついているから。
彼女は、どんな気持ちで僕のお見舞いに来てくれたんだろう。思わず、手元のシーツをくしゃりと握ってしまう。
(……決まってるじゃないか)
ただの、ちょっと仲のいいクラスメートが心配だったからだ。
それだけなんだから、妙な期待をしないようにと自分に言い聞かせる。
「はい」
皿に盛ったリンゴを差し出してくる水無瀬さん。
「きちんと、ウサギさんにしたよ」
言葉通り、かわいらしいウサギカットで並ぶリンゴ。にこにこと笑う彼女に、きっと僕はぎこちない表情だったんだろう。
彼女は眉をひそめる。
「リンゴ、嫌い?」
「……あ、そんなことないよ」
「うーん、お見舞いにはリンゴがいいよって、お兄ちゃん言ってたんだけど。バナナの方がよかったかな?」
「……ううん」
そんなことないよ、と言いかけて。
「え?」
僕は、自分の耳を疑った。
今、水無瀬さんは何て言ったのか。
「……お兄ちゃん?」
半信半疑で、おずおずと言葉にしてみる。
「水無瀬さん、お兄さんがいるの?」
もしかして、まさか。
もう一度、昨日の光景を思い出す。気安く車に乗り込んだ水無瀬さん。その車を運転していたのは、つまりは……
「うん、いるよ?」
言ってなかったけ? と水無瀬さんは小首を傾げる。
僕は期待半分、不安半分で尋ねてみる。
「昨日、駅の近くで水無瀬さんを見かけたんだ。声をかけようとしたら、車が来てさ……もしかして、あの人が?」
「え? なーんだ。昨日いたの? うん、お兄ちゃん。そっかー、残念だったね。だったら乗せていってあげればよかったよ。だったら、倒れなくてもすんだかもしれないのに」
脱力のあまり、眩暈がしたのは気のせいだったのだろうか。
「ん? どうしたの。こー君、気分悪いの?」
彼女の顔が不安になって、その声が少し遠くなるから、きっと気のせいじゃなかった。
「ううん、大丈夫」
確かに眩暈はするけれど、それは全然平気だった。
僕の勝手な勘違いだったのだとわかったのだから、そのくらいどうってことはない。
本当に、どうってことはない。
(ああ……本当に)
何もかもが、バカらしい。
バカらしくて、笑えてきた。
「……あ、あはは」
「こー君?」
「あはは……ごめん」
突然笑い出した僕を、不思議そうに見つめる水無瀬さん。そんな彼女に頭を下げながら、
(……デート、どこに誘おうかな)
そんなことを、僕は考えていた。
窓の外には、澄み渡った青空が広がっていた。
◇
少女の前で笑う少年を、わたしは眺めていました。
駅前の、賑やかな街並みを眼下にそびえたつ――高いマンションの屋上から。
はるか遠くの、窓の向こう。
普通の人間だったら、きっとそんな先は見えないでしょう。
だから、彼からはわたしの姿を見ることはできないはずでした。
でも、それが正しいのです。
これ以上、こちらの世界に関わらない方がいいのですから。
「やれやれ、全部丸く収まったみてーだな」
すぐとなりに立つ長身の人影―紫電が溜め息交じりに言います。
「うん、めでたしめでたしってことだね」
傍らで、小柄な姿――紫路が朗らかに笑います。
織本耕介君の様子から、もう自分の世界から抜け出そうという気はないみたいでした。
「しかし、何だよ。全部は、あいつの被害妄想か? 肩透かしを喰らう結末だな」
「そうかもしれないね」
肩をすくめる紫電に、わたしは小さくつぶやきます。
でも、これでいいのです。
――死にたい、と彼は言っていたけれど。
わたしには違う声で届いたのだから……。
「だから、これでいいと思う……」
その言葉に、紫電は何かを言いたそうでしたが――結局、言葉を飲み込みます。
変わらずに、紫路は笑顔を浮かべています。
決定的に隔たってしまった世界を、帰ることはできません。
どんなに悔やんでも、二度と戻れません。
どれだけ望んでも、絶対にやり直せません。
たった一歩を踏み出してしまうだけで、何もかもが、壊れてしまうのですから。
そう。
今こうして、ここにいるわたし自身のように。
轟……、と。
風が、吹き抜けました。
長い黒髪が、ひるがえります。
「さあ、帰ろうか」
その言葉を残して。
わたしは、この世界を去ります。
そうして、また帰るのです。
向こうの世界に。
また、わたしを呼ぶ声が届くその時まで。
灰色と鉛色に染まる世界に、たたずみながら。墓標のように突き立つ無数の風車が。
くる、くる、くる。
来る、繰る、繰る……と。
静かに、哀しく、寂しく、回り続る――その世界で。
誰かの声が、届くまで。
――わたしは、これからもずっと待ち続けます。
ベッドの隣に椅子を寄せて、座りながら。お見舞いにと持って来てくれたリンゴを剥きながら、水無瀬さんが言う。
「倒れて病院に運ばれたって聞いてさ。でも、元気そうでよかったよ」
いつもみたいに、明るく笑う水無瀬さん。
「あ……うん」
僕はあいまいに頷く。彼女の顔を、まっすぐには見れない。
何せ、昨日のあの光景がまだ目に焼きついているから。
彼女は、どんな気持ちで僕のお見舞いに来てくれたんだろう。思わず、手元のシーツをくしゃりと握ってしまう。
(……決まってるじゃないか)
ただの、ちょっと仲のいいクラスメートが心配だったからだ。
それだけなんだから、妙な期待をしないようにと自分に言い聞かせる。
「はい」
皿に盛ったリンゴを差し出してくる水無瀬さん。
「きちんと、ウサギさんにしたよ」
言葉通り、かわいらしいウサギカットで並ぶリンゴ。にこにこと笑う彼女に、きっと僕はぎこちない表情だったんだろう。
彼女は眉をひそめる。
「リンゴ、嫌い?」
「……あ、そんなことないよ」
「うーん、お見舞いにはリンゴがいいよって、お兄ちゃん言ってたんだけど。バナナの方がよかったかな?」
「……ううん」
そんなことないよ、と言いかけて。
「え?」
僕は、自分の耳を疑った。
今、水無瀬さんは何て言ったのか。
「……お兄ちゃん?」
半信半疑で、おずおずと言葉にしてみる。
「水無瀬さん、お兄さんがいるの?」
もしかして、まさか。
もう一度、昨日の光景を思い出す。気安く車に乗り込んだ水無瀬さん。その車を運転していたのは、つまりは……
「うん、いるよ?」
言ってなかったけ? と水無瀬さんは小首を傾げる。
僕は期待半分、不安半分で尋ねてみる。
「昨日、駅の近くで水無瀬さんを見かけたんだ。声をかけようとしたら、車が来てさ……もしかして、あの人が?」
「え? なーんだ。昨日いたの? うん、お兄ちゃん。そっかー、残念だったね。だったら乗せていってあげればよかったよ。だったら、倒れなくてもすんだかもしれないのに」
脱力のあまり、眩暈がしたのは気のせいだったのだろうか。
「ん? どうしたの。こー君、気分悪いの?」
彼女の顔が不安になって、その声が少し遠くなるから、きっと気のせいじゃなかった。
「ううん、大丈夫」
確かに眩暈はするけれど、それは全然平気だった。
僕の勝手な勘違いだったのだとわかったのだから、そのくらいどうってことはない。
本当に、どうってことはない。
(ああ……本当に)
何もかもが、バカらしい。
バカらしくて、笑えてきた。
「……あ、あはは」
「こー君?」
「あはは……ごめん」
突然笑い出した僕を、不思議そうに見つめる水無瀬さん。そんな彼女に頭を下げながら、
(……デート、どこに誘おうかな)
そんなことを、僕は考えていた。
窓の外には、澄み渡った青空が広がっていた。
◇
少女の前で笑う少年を、わたしは眺めていました。
駅前の、賑やかな街並みを眼下にそびえたつ――高いマンションの屋上から。
はるか遠くの、窓の向こう。
普通の人間だったら、きっとそんな先は見えないでしょう。
だから、彼からはわたしの姿を見ることはできないはずでした。
でも、それが正しいのです。
これ以上、こちらの世界に関わらない方がいいのですから。
「やれやれ、全部丸く収まったみてーだな」
すぐとなりに立つ長身の人影―紫電が溜め息交じりに言います。
「うん、めでたしめでたしってことだね」
傍らで、小柄な姿――紫路が朗らかに笑います。
織本耕介君の様子から、もう自分の世界から抜け出そうという気はないみたいでした。
「しかし、何だよ。全部は、あいつの被害妄想か? 肩透かしを喰らう結末だな」
「そうかもしれないね」
肩をすくめる紫電に、わたしは小さくつぶやきます。
でも、これでいいのです。
――死にたい、と彼は言っていたけれど。
わたしには違う声で届いたのだから……。
「だから、これでいいと思う……」
その言葉に、紫電は何かを言いたそうでしたが――結局、言葉を飲み込みます。
変わらずに、紫路は笑顔を浮かべています。
決定的に隔たってしまった世界を、帰ることはできません。
どんなに悔やんでも、二度と戻れません。
どれだけ望んでも、絶対にやり直せません。
たった一歩を踏み出してしまうだけで、何もかもが、壊れてしまうのですから。
そう。
今こうして、ここにいるわたし自身のように。
轟……、と。
風が、吹き抜けました。
長い黒髪が、ひるがえります。
「さあ、帰ろうか」
その言葉を残して。
わたしは、この世界を去ります。
そうして、また帰るのです。
向こうの世界に。
また、わたしを呼ぶ声が届くその時まで。
灰色と鉛色に染まる世界に、たたずみながら。墓標のように突き立つ無数の風車が。
くる、くる、くる。
来る、繰る、繰る……と。
静かに、哀しく、寂しく、回り続る――その世界で。
誰かの声が、届くまで。
――わたしは、これからもずっと待ち続けます。