二階堂桜子の美学
第八話 瑛太の意志

 綾乃と恐怖の邂逅を果たしてから一ヶ月、軽井沢での休暇も最終日を迎え桜子は心がズキズキ痛んでいた。綾乃からのプレッシャーも一因だが、想いを寄せる瑛太と半ば強制的に距離を取らされ寂しさが込み上げる。
 同じ建物内にいるからこそ、余計にその気持ちが膨れ上がり桜子の胸中を支配していた。
(綾乃お姉様からはしばらく軽井沢への避暑は禁止と言われた。今日を最後に瑛太君とはいつ会えるか分からない)
 昼前には出立すると聞いており、告白への焦燥感は深まるばかりだ。綾乃はリビングで両親と歓談しており、今が数少ないチャンスと言える。足早にキッチンへと赴くが瑛太の姿はなく、勝手口の方へ回る。そこにはゴミを片付けている久子の姿があった。
「久子さん」
「あら、桜子お嬢様。どうかされましたか?」
「あの、瑛太君は……」
「瑛太なら街まで買い物に行ってますよ。綾乃お嬢様からお土産を買うようにと言われまして」
(綾乃お姉様! 最後の最後まで私たちの仲を裂こうとしてわざと買い物を。なんて姑息な……)
 顔つきが変わる桜子を見て久子は近くまで歩み寄り、声のトーンを落として話しかける。
「桜子お嬢様、瑛太とお会いになりたいの?」
「はい」
「綾乃お嬢様から、また酷い折檻を受けますよ?」
「それでも、一目会って言いたいことが……」
 桜子の真剣な願いを聞いて、久子はしばらくじっと顔を見つめた後、笑顔で頷く。
「分かりました。買い物は他の者に行かせ、瑛太にはすぐ戻るように手配します。出立までに間に合うかどうかは分かりませんが」
「久子さん、ありがとう」
「いえいえ。さ、桜子お嬢様は別荘の中へ。こんなところに居たら怪しまれますわよ」
 久子の言葉で桜子は大人しく別荘内の部屋へと戻る。
(もし時間内に瑛太君が帰ってきたら私の方から告白しよう。想いが伝わらず玉砕したとしても、このままの気持ちで何年も会えないなんて苦しすぎる。綾乃お姉様からは後で大変な目に合わされるかもしれないけど、ここでちゃんと言うべきだ!)
 自分の気持ちに整理を付けると、覚悟を決めて瑛太の帰りを待つ――――


――一時間後、出立の時間が間近に迫り桜子は気が気で居られない。久子を横目で見ると首を横に振られ、瑛太が間に合わなかったと察する。
 車の後部座席に乗ると桜子はウインドウを下げる。隣に座る綾乃は綺麗に背筋を伸ばし本を読み始める。車が発進すると流れる林道を眺めつつ、桜子は瑛太を探す。
(話せなくてもいい。せめて一瞬でも瑛太の姿を見てから東京に帰りたい)
 祈るような面持ちで外を眺めていると、走っていた車が急に止まる。綾乃も前のめりになり、ちょっと不機嫌になっている。訝しげに待っていると、運転手から車の前に子供が居て通れないと通達を受けた。
(子供? もしかして!)
 ウィンドウから身を乗り出して先を見ると、そこには恋焦れた瑛太が立っている。
「瑛太、君……」
「子供って瑛太さん?」
 綾乃の声に桜子はビクッとなる。
「はい」
「もしかして、手にお土産持ってるかしら?」
 確認すると、大き目の紙袋が見て取れる。
「たくさん持ってます」
「受け取ってきて。くれぐれも余計なことは話さないように」
「は、はい」
 緊張する反面、短いながらも瑛太と二人きりの時間が持てると分かり胸の鼓動が早くなっていく。
(少ししか話せないけど、告白できないこともない。伝えなきゃ、私の気持ちを……)
 車から降りると桜子はゆっくり瑛太へと歩いて行く。瑛太もそれに気が付き歩いてくる。目の前までくると瑛太が紙袋を突き出す。
「これ、綾乃さんから頼まれたお土産」
「ありがとう、お疲れ様でした」
「母さんから聞いたけど、もうここには来ないってホントか?」
「うん、だぶん、そうなるかな」
「そっか」
 瑛太はそう言ったきり黙ってしまう。
(何か言わないと、あまり長く話したら怪しまれるし)
「あ、あの、瑛太君」
「ん?」
「わ、私……、私のこと、忘れないで」
「は? 忘れる訳ねえだろ」
「うん、ありがとう」
(ダメだ。本人を目の前にしてしまうと、どうしても……)
 苦しい表情をしていると背後から綾乃がやってくる。
「なにやってるの? 受け取ったなら早く車に乗りなさい!」
「は、はい」
 後ろ髪が引かれつつ桜子は車に向かう。その瞬間、瑛太が口を開く。
「綾乃さん、一言いいですか?」
「なにかしら?」
「綾乃さんが言う、身分とか家柄とか、クソだと思う」
 綾乃に対して意外な言葉を浴びせる瑛太を見て、桜子はビックリする。
「そんなものでしか他人を計れないなんて、寂しい人間ですね」
「ふふ、瑛太さん、一人前の口をきくようになったのね。お姉さん、その成長、嬉しいわよ。でもね、世の中には覆せない領域が確実に存在するの。努力でもどうにもならないものがね」
「そんなもの、努力を諦めた人間の言い訳だよ」
「そう思うのなら私たちのいる領域まで上がってきて見せてちょうだい。そこまで来て初めて貴方の意見の正当性を認めてあげるわ」
「はい、首を洗って待っててください」
 綾乃は口角を上げた笑顔を見せると先に後部座席へと乗り込む。桜子が見つめていると、瑛太はニコリと笑い一言だけ呟いた。
 車に乗り込むと瑛太を取り残し車は発進する。サイドミラーに映るそのシルエットはどんどん小さくなる。しかし、最後に貰った「ずっと忘れない」という言葉に心は熱くなり、瑛太への想いは強固なものになった。
 告白はできなかったものの、瑛太が自分のことを大事に想っていたことは理解でき、泣きそうになるくらい嬉しい気持ちが胸に拡がる。笑顔を浮かべる桜子とは対照的に、綾乃は冷静な眼差しでその横顔を観察していた。

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