次期社長と甘キュン!?お試し結婚
 そんなある日、帰宅すると珍しく彼女がリビングにいて話しかけてくれた。映画を一緒に観ないか、という誘いだったが、それを即答で断わる。

 こちらの言いたいことだけを言うと、彼女は途中で観ていたにも関わらず、映画をやめて自室に戻っていった。せっかくのチャンスになにもできなかったことを少しだけ悔やんだが、そこまでの余裕もなかった。

 翌日、是非彼女も一緒にと会食の誘いがあり、とりあえずあとで携帯に連絡でもいれておくか、と思ったそのとき、ふと昨日の彼女の姿がなにかとダブった。

 その答えが自分の中で繋がる。彼女は昔飼っていた自分の犬に似ているのだ。昨日、帰ったとき、ソファの上でちょこんと座っている姿や、ソファから顔を出して、こちらをじっと見ている姿など。

 犬に似ている、なんて言えば彼女はどういう反応を示すだろうか。さすがに怒るだろうか。それを想像すると、ますますおかしくて勝手に笑みがこぼれた。

「なにかいいことがあったんですか?」

「いや、なんでもない」

 栗林に指摘され、俺は慌てて顔を引き締める。こんな風に誰かに指摘されるほど、自然と笑顔になったのはいつ振りだろうか。そんなことを考えていると、目の前に見慣れた姿を見つけた。

 同僚たちと会議に向かっているだろう彼女は、昨日、俺が言ったとおり、目線も合わさず、なにも知らないふりをしてくれて、他の同僚たちと同じように頭を下げてくれる。俺も目を合わさず、通り過ぎた。

 けれど、なんとなく彼女の後姿を目で追う。振り向くわけがない。それでも立ち止まって、つい見つめていると、彼女の顔がゆっくりとこちらを向いた。

 ちょいちょいと指で合図すれば、彼女はやっぱり犬のように俺のことを探して追いかけてきてくれた。そのことに少しだけ気持ちが温かくなる。
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