借金のカタに取られました
納車の日、待ちきれずにマンションの玄関先で待っていると向こうから新車がやってきた。
航平も後ろから覗き込み
「初心者に選ばれるなんて、あの車も不幸だな」と笑う。
「ぶつけないから大丈夫です」と怒った振りをする。
千那好みの丸くて可愛い大きさの車だったが、ちらりと見えた値段は忘れていない。
絶対にぶつけられない、とプレッシャーを感じていた。
「俺は乗らないから、お前は近所を一周してこい。まだ遠くまで行くんじゃないぞ」とそそくさとマンションに入っていった。
新しい車は独特の匂いがした。初めて路上教習に出るときよりも緊張する。何度も左右の確認をして発車すると、
今までにない、新しい世界の自由を得られたな感じがして気分が高揚した。
自らの力で動かす事が出来て、自分の思い通りになることが、千那を一番興奮させた。
近所をぐるぐると周り、歩いているときとこんなにも景色が違う物なのかと感心して無事に駐車場に戻ってきた。
部屋に戻ると
「お、生きていたか」とからかう。
カズさんは
「今度乗せてくださいね」と言ってくれるがすかさず
「カズさん、やめておいた方が身のためですよ」と航平が口をはさみ、三人で笑う。
この何気ない会話が、どうして幼い頃なかったのだろう。これが普通なのか、千那の家が異常だったのかよくわからない感覚に陥るが、間違いなく今の生活は幸せだった。
こうして週末には千那の運転で、カズさんと料理の買い出しに出掛けた。これで少し遠くのスーパーにも行ったり、時には地方の野菜直売所に行くことが出来て、少し役に立っているようで嬉しかった。
カズさんも生み立て卵の直売所を見つけてきたり、朝市を見つけては行動範囲が広がったことに喜んでくれた。
車を乗り出して初めて、真子を誘ってドライブに出掛けた。
真子はとても興奮した様子で
「千那が車を運転するなんて」と何度も同じ事を言って笑わせた。
真子は私が小さい頃から知っているので、とても消極的で人の影に隠れて目立たないように過ごしてきたのを知っている。
いじめられても言い返すことも出来ず、おどおどとしていた。今の姿とは程遠く、驚くことばかりなのは無理もない。
車の中ではおしゃべりしたり、お菓子を食べたり、曲を聴いたりと、未経験の出来事に二人してはしゃいだ。
そして、秋の気配が感じ始めた海についた。
夏は終わりを迎えて、海水浴客は既におらず役目を終えたかのような、静かな海だった。
浜辺に腰掛けて、真子の冗談を聞きながら大笑いし、その後、ネットで見つけておいた近くのおしゃれなレストランへ向かう。
「車を買ってくれるなんて、千那のこと好きなんじゃないの?」とからかう真子に対して、
「違うわ。成人式と昇進試験の合格と運転免許取得のお祝いなの」
「それでも、普通は車なんて買ってくれないわよ」
そう言われても航平に気持ちがないことは知っている、悲しいけれど。
成人式の日から、航平が言ったように指一本触れてこないし、少し距離があるような気がする。
身体の関係がなくなると、心も離れたような感じがして、距離を感じるのかも知れない。
高校生の頃のように二人で一日中騒いで、真子を家まで送っていった。
その帰り道、航平の姿を見つけた。女性と二人で歩いている。見たことがある女性だと思ったら華道教室の娘さんだ。
あの教室の先生は航平の知り合いだとは聞いていたけれど、娘さんと二人っきりで歩いているなんてデートだろうか。
胸が締め付けられる思いがして、アクセルを踏む。
家に戻り、リビングで先程見た光景を思い出す。
この胸に渦巻いている感情は間違いなく嫉妬だ。
学生時代好きだったクラスメイトの健が、可愛い女の子と楽しそうに話しているときに抱いた感情とは大きく異な
る。もっと深くて暗い感情で、自分自身が嫌になる程の嫌らしい、重いものだった。
それも華道教室の娘さんは、生粋のお嬢様で美人、育ちがよく品もあり、太刀打ちできる相手ではないとわかっていながら 「取られたくない」と思う身の程知らずの自分がいることに驚く。
玄関の扉が開く音がする。航平が帰ってきた。慌てて平静を装い
「おかえりなさい」と笑顔を向ける。
「ただいま」と何事もなかったようにソファーに腰を下ろした。
「ドライブ楽しかったのか? よくぞご無事で」と茶化す航平。
「楽しかったです。安全運転でしたので無事です」と無表情で応える。
「どこまで行ってきたんだ?」
「伊豆です」淡々と答える。
「遠くまで行ってきたんだな」
「はい。海を見て日帰り温泉にも浸かってきました」
「へぇ。今度案内してくれ」と言われて
(彼女と行けばいいじゃない)と心の中で毒づいたが、その自分に嫌気がさす。
こんな日に限って、今日は華道教室の日だった。
昨日見た光景が、頭の中で鮮明に再現される。
お稽古中、彼女を観察している自分に気づく。肌が白く、透き通るような指でお花を生けている。
どう考えても負け戦だ。諦めた方が身のためだ。ここの教室の先生と航平の両親は、幼い頃からの付き合いだと聞
いた。
航平とお嬢さんは私立の小学校が同じで、家柄もお似合いだし、自分の出る幕はない。相手に気持ちを伝えるのも大切だが、それだけではなく、相手の幸せを思い願うのもひとつの愛の形なのだ。
稽古中、そんなことを考えている間に終わってしまった。
カズさんと夕食の準備をする。心のモヤモヤを少しでも解消したくて聞いてみる。
「カズさん、華道教室のお嬢さんって、航平の幼なじみなのですよね」
「ええ。美礼(みれい)さんね。小学校が同じでご近所だったので、ご両親も親しくされておりました。美礼さんもよくお家に遊びにこられていましたよ」
「ふーん」と気にしていない振りをする。
「気になるのですか?」と微笑む。
「いいえ。お稽古におられるので綺麗な方だなと思って」と誤魔化したつもりだったが、
「安心してください。ただの幼なじみですよ」と見破られている。
「でも、この間、二人で歩いているのを見たのです」
「美礼さん、今度、ご結婚されるのです。それで幼なじみの航平さんにも結婚式に出席して欲しいとお願いしたらしいですよ。それでお会いしていたみたいですよ。心配なさらなくても大丈夫ですよ」
身体の力が抜ける。この先ずっとこんな繰り返しなのだろうか。
航平に女性の陰が見える度に嫉妬を繰り返し、嫌な自分と戦うのだろうか。それに彼女が出来たら、いや、結婚し
たらどうなってしまうのだろうと気が遠くなった。
航平も後ろから覗き込み
「初心者に選ばれるなんて、あの車も不幸だな」と笑う。
「ぶつけないから大丈夫です」と怒った振りをする。
千那好みの丸くて可愛い大きさの車だったが、ちらりと見えた値段は忘れていない。
絶対にぶつけられない、とプレッシャーを感じていた。
「俺は乗らないから、お前は近所を一周してこい。まだ遠くまで行くんじゃないぞ」とそそくさとマンションに入っていった。
新しい車は独特の匂いがした。初めて路上教習に出るときよりも緊張する。何度も左右の確認をして発車すると、
今までにない、新しい世界の自由を得られたな感じがして気分が高揚した。
自らの力で動かす事が出来て、自分の思い通りになることが、千那を一番興奮させた。
近所をぐるぐると周り、歩いているときとこんなにも景色が違う物なのかと感心して無事に駐車場に戻ってきた。
部屋に戻ると
「お、生きていたか」とからかう。
カズさんは
「今度乗せてくださいね」と言ってくれるがすかさず
「カズさん、やめておいた方が身のためですよ」と航平が口をはさみ、三人で笑う。
この何気ない会話が、どうして幼い頃なかったのだろう。これが普通なのか、千那の家が異常だったのかよくわからない感覚に陥るが、間違いなく今の生活は幸せだった。
こうして週末には千那の運転で、カズさんと料理の買い出しに出掛けた。これで少し遠くのスーパーにも行ったり、時には地方の野菜直売所に行くことが出来て、少し役に立っているようで嬉しかった。
カズさんも生み立て卵の直売所を見つけてきたり、朝市を見つけては行動範囲が広がったことに喜んでくれた。
車を乗り出して初めて、真子を誘ってドライブに出掛けた。
真子はとても興奮した様子で
「千那が車を運転するなんて」と何度も同じ事を言って笑わせた。
真子は私が小さい頃から知っているので、とても消極的で人の影に隠れて目立たないように過ごしてきたのを知っている。
いじめられても言い返すことも出来ず、おどおどとしていた。今の姿とは程遠く、驚くことばかりなのは無理もない。
車の中ではおしゃべりしたり、お菓子を食べたり、曲を聴いたりと、未経験の出来事に二人してはしゃいだ。
そして、秋の気配が感じ始めた海についた。
夏は終わりを迎えて、海水浴客は既におらず役目を終えたかのような、静かな海だった。
浜辺に腰掛けて、真子の冗談を聞きながら大笑いし、その後、ネットで見つけておいた近くのおしゃれなレストランへ向かう。
「車を買ってくれるなんて、千那のこと好きなんじゃないの?」とからかう真子に対して、
「違うわ。成人式と昇進試験の合格と運転免許取得のお祝いなの」
「それでも、普通は車なんて買ってくれないわよ」
そう言われても航平に気持ちがないことは知っている、悲しいけれど。
成人式の日から、航平が言ったように指一本触れてこないし、少し距離があるような気がする。
身体の関係がなくなると、心も離れたような感じがして、距離を感じるのかも知れない。
高校生の頃のように二人で一日中騒いで、真子を家まで送っていった。
その帰り道、航平の姿を見つけた。女性と二人で歩いている。見たことがある女性だと思ったら華道教室の娘さんだ。
あの教室の先生は航平の知り合いだとは聞いていたけれど、娘さんと二人っきりで歩いているなんてデートだろうか。
胸が締め付けられる思いがして、アクセルを踏む。
家に戻り、リビングで先程見た光景を思い出す。
この胸に渦巻いている感情は間違いなく嫉妬だ。
学生時代好きだったクラスメイトの健が、可愛い女の子と楽しそうに話しているときに抱いた感情とは大きく異な
る。もっと深くて暗い感情で、自分自身が嫌になる程の嫌らしい、重いものだった。
それも華道教室の娘さんは、生粋のお嬢様で美人、育ちがよく品もあり、太刀打ちできる相手ではないとわかっていながら 「取られたくない」と思う身の程知らずの自分がいることに驚く。
玄関の扉が開く音がする。航平が帰ってきた。慌てて平静を装い
「おかえりなさい」と笑顔を向ける。
「ただいま」と何事もなかったようにソファーに腰を下ろした。
「ドライブ楽しかったのか? よくぞご無事で」と茶化す航平。
「楽しかったです。安全運転でしたので無事です」と無表情で応える。
「どこまで行ってきたんだ?」
「伊豆です」淡々と答える。
「遠くまで行ってきたんだな」
「はい。海を見て日帰り温泉にも浸かってきました」
「へぇ。今度案内してくれ」と言われて
(彼女と行けばいいじゃない)と心の中で毒づいたが、その自分に嫌気がさす。
こんな日に限って、今日は華道教室の日だった。
昨日見た光景が、頭の中で鮮明に再現される。
お稽古中、彼女を観察している自分に気づく。肌が白く、透き通るような指でお花を生けている。
どう考えても負け戦だ。諦めた方が身のためだ。ここの教室の先生と航平の両親は、幼い頃からの付き合いだと聞
いた。
航平とお嬢さんは私立の小学校が同じで、家柄もお似合いだし、自分の出る幕はない。相手に気持ちを伝えるのも大切だが、それだけではなく、相手の幸せを思い願うのもひとつの愛の形なのだ。
稽古中、そんなことを考えている間に終わってしまった。
カズさんと夕食の準備をする。心のモヤモヤを少しでも解消したくて聞いてみる。
「カズさん、華道教室のお嬢さんって、航平の幼なじみなのですよね」
「ええ。美礼(みれい)さんね。小学校が同じでご近所だったので、ご両親も親しくされておりました。美礼さんもよくお家に遊びにこられていましたよ」
「ふーん」と気にしていない振りをする。
「気になるのですか?」と微笑む。
「いいえ。お稽古におられるので綺麗な方だなと思って」と誤魔化したつもりだったが、
「安心してください。ただの幼なじみですよ」と見破られている。
「でも、この間、二人で歩いているのを見たのです」
「美礼さん、今度、ご結婚されるのです。それで幼なじみの航平さんにも結婚式に出席して欲しいとお願いしたらしいですよ。それでお会いしていたみたいですよ。心配なさらなくても大丈夫ですよ」
身体の力が抜ける。この先ずっとこんな繰り返しなのだろうか。
航平に女性の陰が見える度に嫉妬を繰り返し、嫌な自分と戦うのだろうか。それに彼女が出来たら、いや、結婚し
たらどうなってしまうのだろうと気が遠くなった。